建築家インタビュー
佐藤光彦
佐藤光彦/さとう みつひこ
佐藤光彦建築設計事務所
1962年 神奈川県出身
大学時代に注目していた建築家
——大学時代、注目していた現代建築家には他にどういった人たちがいますか。
佐藤
最初の頃は、やはりメジャーな、磯崎新さんとかですね。ちょうど筑波センタービルが出来た頃で、建築誌上で論争を巻き起こしていました。伊東豊雄さんや石山修武さんが批判していたり、そういうことは最近の建築誌では、あまり見られませんよね。
2、3年生になると、少しずついろんなものの中から興味が絞られていって、いちばん影響があったのは、2年生の時から原広司さんの研究室に遊びに行っていたんですね。あの当時はグラーツの展覧会のために、アクリル板に傷を付けて巨大なオブジェみたいなものをつくっていて、そのために長い間行っていましたね。ちょうどその頃、シーラカンスをつくった小嶋一浩さんとか伊藤恭行さん、日色真帆さんとかが大学院にいらしたんですよ。
——そういった、ちょっと上の方たちからはどういう影響がありましたか。
佐藤
やはり知らなかった建築家とか知る機会が増えましたね。その頃だったかな、レム・コールハースを知ったのは。ラ・ヴィレット公園のレムの案は衝撃的でしたね。あの頃はじめて『AA』で特集が組まれたんですよね。洋書とかまだ手に入れにくかったんですけど、どこからか入手しましたね。 まだプロジェクトばかりで、ゼンゲリスと一緒にやっていた頃の数々のプロジェクトのドローイングとかが載っていて。
——レムが出てきたときはどう思われたんですか。
佐藤
最初はとにかくかっこいいなと。ラ・ヴィレット公園のコンペ案というのも、なんでこういうことを考えつくのか分からないくらい衝撃的でしたからね。考えていくプロセスのドライな感じ、クールな感じにも惹かれましたね。とにかくいちばん影響受けましたね、卒業設計をやる上でも。
それとは別に好きだったのが伊東豊雄さんでしたね。
あの頃は「光の変様体」から次のステップへと劇的に変わる頃で、ちょうど僕が伊東事務所に入る前の年にシルバーハットができたくらい。伊東さんとか山本理顕さんとか、六角鬼丈さん、長谷川逸子さん、あと石山修武さんたちがまだ若くて大きな仕事をしていない時期だったんですが、渋谷のパルコのホールで連続レクチャーがあったんですね。その世代の方たちに惹かれていて、その中でも伊東さんが好きで、笠間の家という、光の変様体のいちばん最後ぐらいにつくった住宅があるんですけど、それがすごく好きでした。その設計プロセスが『都市住宅』に載っていたんですよ。初期案から案を詰めていく過程が全部載っていて、その具体的な設計の仕方、どういうことをしながら設計をしているのかとういうことにすごく興味を持ちました。
——その記事は具体的にどういうものだったんですか。
佐藤
光の変様体の頃というのは、最後には、本当にはかないくらいに美しい空間が出来上がって、特に笠間の家というのはそれの最たるものだと思うんですけど。それが出来上がっていくプロセスというのが、最初はすごく普通の、どこがかっこいいのか分からないようなところから始まって、切妻型のシンメトリーな建物になったりとか。
模型と図面、スケッチが入っていて、かなり詳細な、施主との打ち合わせ過程も含んだ記録がまとめられていました。数々の案が検討され修正されていくなかで、ある時期すうっと最終形に収斂していく瞬間があって、プロセスを見ているだけでゾクゾクしました。収斂しながらも最後にまったく違う案をぶつけたりして、設計するというのはこういうことなのかと思いましたね。
——そのあたりの佐藤さんご自身の設計への影響というのは?
佐藤
設計は伊東事務所に入ってから身についていったものだと思うんですけれど。とにかく設計の現場っていうのはこういうことをやっているんだということが非常に心に残っていますね。
そういうこともあって、そこで働きたいと思えるのは伊東さんだけでした。
——原さんの研究室にも出入りされていたということですが、原さんからはどういう?
佐藤
まず楽しかったですね。僕はまだ2年生でしたからね、他の大学からたくさん来ている学生の一人で、直接お話しするようなことはなかったですが。アクリル板に模様をキーキー削っていってそれが出来上がってきれいなんですけど、ほとんど理解できてはいませんでした。ただ、建築にはこういう表現の世界もあるのかと、視界が広がった気はしました。
その頃に自邸を見せていただいたんですけど、これは素晴らしい経験でしたね。建築の空間っていうのはこういうものなのかと。写真とかでは、どちらかというと冷たい美術館のような空間という印象があったんですが、行ってみると実に細かいスケールの配慮がされていて、すごいヒューマンな空間で、かつ抽象化もされていて。ただ、原さんの事務所に行きたいとは思わなかったんですね。自分にいちばん近いとか好きだとか素直に思えたのは伊東さんだった。 4年生の時に伊東さんのところに行って図面を見ていただいたりして、すこしバイトとかも始めたりして出来たばかりのシルバーハットを見せていただいたりして。
——図面を見ていただいたときの伊東さんの反応は?
佐藤
非常に面白がってくださいましたよ。僕は学校で全然評価されてなかったんですけど、図面というよりは模様みたいなものばっかり描いてましたから。パターンみたいな、ちゃんとした図面表現ではないようなものばっかり描いていたので。
大学ではジャズ研でペット吹き
——大学時代はサークルみたいなものは入られなかったんですか。
佐藤
ジャズ研に2年くらいいましたね。
——楽器は何を?
佐藤
それまでまったく楽器をやったことがなくて、楽譜も読めないのにいきなりトランペットを始めて。
——マイルス・デイビスとかに惹かれて?
佐藤
たまたま仲のいい友達がやっていたこともあって、やってみようかなというぐらいで入って。それでも人前で吹いてましたからね、学祭とかで、恐ろしいことに(笑)。
——当時はどういう音楽を聴いていたんですか。
佐藤
やはりマイルス・デイビスとかですよ。あとビル・エヴァンスとかコルトレーン。ほかにはトランペットの人が多かったですね、クリフォード・ブラウンとか。
伊東豊雄事務所に入所
——伊東事務所に入られた頃は、石田敏明さんや妹島和世さんがいらっしゃったんですね。
佐藤
石田さんはもういらっしゃらなかったですね。飯村さんという方がチーフでした、シルバーハットとか担当された。
——どういう雰囲気だったんですか、当時の伊東事務所は?
佐藤
僕が入った頃は所員は8人くらいでしたが非常に仲良かったですよ。当時はマンションの一室でした。よく飲みに行ったり食べにいったりとかしていましたね。
——伊東事務所ではどの作品を担当されたんですか。
佐藤
4年生の後半くらいからけっこう事務所に行っていたのでその頃からコンペとか手伝っていましたけど。湘南台文化センターのコンペとかを正月とかに一緒にお手伝いしたりしていて、ちょうど横浜の風の塔のコンペもあって、入った時に最初にそれを担当しました。入った年の暮れには一つ目の担当物件が運よくできていましたね。人によってはタイミング悪いとなかなか実作の担当にならなかったりすることもあるんですけども、僕はいくつか担当できました。
——結局伊東事務所には何年いらしたんですか。
佐藤
7年ですね。30歳でやめようと思っていたので。
——独立されるまでに何件担当されたんですか。
佐藤
横浜風の塔の他には、北海道にあるサッポロビール・ゲストハウスと佃島の大川端リバーシティにある風の卵、永山の大きな複合商業施設 アミューズメントコンプレックス〈H〉など、あとはコンペですね。
最後にやったのはフランスのジュシューの図書館のコンペですね。レムが1等を取って、結局出来なかったですけども。あのコンペをかなりやってましたね。もし伊東事務所で取れていたらやめないで担当したいなと思いましたけど。それがちょうどやめる直前くらい。それで勝てなかったので予定通り30でやめました。なにか当てがあったわけじゃないんですけど。
伊東事務所の設計の進め方
——まあ、どうにかなるだろうと。
佐藤
なるとかならないとか考えもせずに。30になったら独立するものだと思っていたので。妹島さんや石田さんも確かそれくらいで独立しているんですよね。だから、そういうものだと思ってた。それまでは実家から通っていたんですけれども、やめて収入がなくなると同時に実家を出て(笑)。独立するんだから自分で借りて住むべきだと。
——それもそういうもんだと(笑)。独立されて最初の仕事をするまではどのくらいあったんですか。
佐藤
3年くらいあったけど、どうにか生きてましたね。事務所をやめる直前にプライベイトで受けた仕事があってその設計料が少しあったんですね。それはありましたけど、それ以外はどうしてたんだろう?でも、なんとかなるもんなんですね(笑)。
——伊東事務所出身の建築家はその後活躍される人が多いような気がしますが、これはどうしてなんでしょうか。
佐藤
菊竹事務所も多くの建築家を輩出していますよね。そのやり方を継いでいるのが伊東さんかもしれないですね。菊竹事務所のことはよく知りませんが、伊東事務所では所員同士とても仲が良かったですが競い合ってもいましたね。コンペとかあれば自分の案が残るように競い合って考えるし、実施もその頃はそれほど大きな物件がなかったこともあって、基本的には一人ひとりが担当してやっているので。自分の担当しているものが良く出来るようみんな頑張っていました。
最近は変わってきているかもしれませんが、伊東さんはあまり直接的な指示とかスケッチは出さなかったですね。
そういう中で続けていると、やっぱり鍛えられるんだと思うんですよ。最初に設計を始める時とかって手がかりさえないですからね。手探りでやっていくしかないですから。
——伊東さんのほうで方向性みたいなものは出さないんですか。キーワードとかで。
佐藤
抽象的なキーワードみたいなものとかはありましたね。
——そこからは所員が発展させていく。
佐藤
そうですね。
——それで伊東さんは微妙な方向修正みたいにしてコントロールしていく。
佐藤
そうですね。ただ、「こうだ」っていうよりは「こうではない」って感じ(笑)のほうが多かったかな。
——7年の間に建築家の伊東豊雄から影響を受けた部分というのはどういうところですか。
佐藤
やっぱり、振り返れば、『都市住宅』で書かれていたことと同じだと思うんですけれど、スタディの仕方でしょうね。どういうふうに建築を考えていくのかみたいなこと、その方法だと思うんですよね。伊東さんはまったく形のないようなところから考え始めているのだろうと思うし、あの頃は、伊東さんがどんなこと考えているのかきちんと把握できてなかったと思うんですね。時々線を描いたかと思えば、抽象的な、建築とは思えないような線を描かれたりするし。それがたぶん、せんだいメディアテーク以降は伊東さんの思い描いている線と出来上がっていくものとがずいぶん一致してきたのではないかと思うんですが。
当時は、こんなに人に任せていたいいんだろうかって感じでしたけど、でも最終的に出来たものは伊東豊雄の建築になるので、不思議ですよね。ある意味、人の使い方が滅茶苦茶うまいんでしょうね。自分がなんとかしなきゃって所員がなってしまうところもありますし。
2010年10月22日、setteにて収録。次回の【3】に続く
以下すべて、sette, 2009
写真提供=佐藤光彦建築設計事務所
住戸G地上階のリビング
住戸G地上階のリビング
住戸Gの離れ
住戸G地下階の西側スペース
住戸G地下階の東側にある寝室。奥に浴室
地上階
住戸G 地下階平面図
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