消費者目線で考える
——吉村さんは、普通の思考というか、先入観を持たずに見たときには自然と出てくるような疑問とかを大切にされていますね。
吉村
それはだいじに思っている点です。エンドユーザーに近い感覚、視点で見ると建築は良い意味でも悪い意味でも、おかしな事だらけです。たとえば、僕はコンテナのプロジェクトをずっとやっていて、昨年はベイサイドマリーナホテル横浜がようやく竣工したんですけれど、これはもともとは住宅の値段をどうやって下げるかという検証から始まったプロジェクトです。世の中にはいろんなデザインの住宅がありますが、それらを35年ローンを組んで買うんだとしたら、そこで営まれる生活はかなり均質なんじゃないかという気がするんですね。ローンを組んだ時点で、会社を辞めることはできないし、結婚して子供を育ててっていうような一生涯が先まで決定してしまう。建築が生活の重荷になるような状況は、僕はつくりたくない。建築家をはじめとする建築の供給者は、ローンを組まないで買える選択肢を提示しなければならないと思うんですね。そういう選択肢があるのとないのとでは大きな違いがあります。でも、その実現のためには、建築を日本でつくっていてはだめ。日本は人件費が高すぎます。今だって建材は沢山輸入されていますが、それだけではだめで、建築そのものを輸入する必要がある。内外装が仕上がった状態の建築を輸入しなければ値段は下がらないんです。そこで、世界中に網の目のように張り巡らされているコンテナ輸送のネットワークに注目しました。この規格に便乗すれば、コストを大幅に削減できます。建築をそのフォーマットに合わせてつくって、直接コンテナ船に載せられるようにすればローコスト化が可能になります。そうするとだいたい日本でつくったときの3分の1ぐらいまでは値段が落とせるので、ポケットマネーとはいかないかもしれないけど、ローンを組まずに買える住宅というものにぐっと近づく。コンテナの場合、かたちは既成のフォーマットでまったくいじれないわけですが、こういうシステムの構築もデザインの一種だと考えています。
——デザインが第一の目的ではないということですよね。
吉村
そうですね。新しい条件と向き合うことによって、自然に建築が新しくなるはずではないかと。
——ローンということに目をつけることにより、それが今おっしゃったように建築の問題になり、流通や生産にもつながっていく。
吉村
これは本当に消費者目線ですよね。自分はどうやって建築を買うんだろうっていう素朴な疑問がはじまりです。
建築のクラウド化
——コンテナのお話が出ましたが、どこかでコンテナ輸送に関して流通のクラウド(cloud)化みたいなことを話されていたと思います。そこでうかがいたいのですが、コンテナを使ったプロジェクトには建築自体のクラウド化のような視点はあるのでしょうか。コンテナ自体には明確な形があるのでクラウドというのは当てはまりませんが、コンテナの場合は、雲のように、全体の形というか配置を変えることができて、雲のように移動もできるというところで……。
吉村
クラウドって形のことではないと思うんですよね。雲みたいな建築をつくれたらそれはそれですごいだろうなとは思いますが、形のことはあまり言わない方がいいんじゃないかなと思っています。それを言ってしまうと、昔、情報技術と言えばウェブ=網目を想像した人たちを責められなくなってしまう。ただ、仕組みとしてクラウド的な建築になりうる可能性はあると思います。クラウド化というのは、集約と分散、粗密のコントロールをする技術のことです。コンピュータで言えば雲の向こうから情報端末にその一部を逐次吸い出すようなイメージですが、建築だって同じような集約と分散の再整理ができるかもしれない。コンテナのプロジェクトでは、世界中に張り巡らされたコンテナのネットワークを端末とクラウドの通信装置に見立てています。既存のシステムを利用することで、最初から最高の通信速度を手に入れることができます。通信速度が上がらないとクラウドができないのと同じで、流通網が整備されていないと、机上の空論になってしまいます。
選択肢を増やし多様な世界を提示する
——均質なモノ文化というものは嫌だったというお話をうかがいましたが、反面、量産されるものへの憧れがあり、また同じ車が何千台も置かれている風景というのが原風景というお話もありました。コンテナによるプロジェクトというのは、この原風景に近いものも感じられます。つまり、量産された同じものの反復によってつくりだされているということで。
吉村
両方なんですね。量産への憧れもあるけれども、一方で均質さというのは嫌だった。たとえばベイサイドマリーナホテル横浜は、コンテナの一個一個は均質ですが、配置をバラバラにすることによって、この敷地を散策をしているとき均質さに息が詰まるようなことはないはずです。ほんとに世の中がコンテナ建築だけで覆い尽くされてしまったら悲惨ですが、現代にあってそれは考えにくい。むしろ選択肢が増えることでより多様な世界を提示できてると思うので、量産だから均質とまでは言いきれないんじゃないかなと思っています。
それと、建築が量産ではないという認識もすでに幻想のようなところがありますよね。もはや街中に建つ建築の大部分はほとんど量産と言うべき普及技術を使って組み立てられていて、工場でつくられこそしないものの、たとえば住宅地などでは現場が工場の生産ラインと見立てられている。職人が順番に移動していくわけです。実際のところ、この世の中に一品生産しかしないみたいなジャンルはほとんどない。そこにあまり固執していてもしょうがないんじゃないかというふうには思っています。
それと、建築が量産ではないという認識もすでに幻想のようなところがありますよね。もはや街中に建つ建築の大部分はほとんど量産と言うべき普及技術を使って組み立てられていて、工場でつくられこそしないものの、たとえば住宅地などでは現場が工場の生産ラインと見立てられている。職人が順番に移動していくわけです。実際のところ、この世の中に一品生産しかしないみたいなジャンルはほとんどない。そこにあまり固執していてもしょうがないんじゃないかというふうには思っています。
フレーム=開口=穴への意識
——建築を外から規定するフレームがある一方で、建築にはリアルなフレームがありますね。吉村さんはこのリアルなフレームというものへの意識も強いように感じます。
Nowhere but Sajimaでは、違う大きさの違う形のフレームをつくることによって、風景に対して異なったフレーミングをされて、海に対しての異なった眺望を用意している。あるいは、軒の家の開口はすべて正方形だと思いますが、さまざまな高さと大きさの開口で富士山へのさまざまな眺望を用意しているようにみえる。
Nowhere but Sajimaでは、違う大きさの違う形のフレームをつくることによって、風景に対して異なったフレーミングをされて、海に対しての異なった眺望を用意している。あるいは、軒の家の開口はすべて正方形だと思いますが、さまざまな高さと大きさの開口で富士山へのさまざまな眺望を用意しているようにみえる。
吉村
一概に眺望のことを重要視するわけではないので、ずばりフレームといってよいかわかりませんが、窓には採光や通風などいろんな機能が集中していて、そこが建築と街なり土地なりとのインターフェースになってくれているという感覚は強いです。そこをどうやって形にしていくかという検討にはかなりの時間を割いていると思います。
——フレーミングをちょっとずらして穴を開けるというふうにとらえると、ミラー・エラー(*1)は、外部から内部を覗くというかたちですが、これは文字通り壁に穴を開けている。さらに、穴を開けるということでは、亀や竜宮殿(*2)では天井に大きな穴を開けているようにも見えます。
*1 2005年の東京デザイナーズウィーク・コンテナ展に出店した家具販売雑誌のブース。コンテナに開けられた無数の穴から、中に展示された家具を覗き見る仕掛けになっていた。
*2 2004年竣工の山形にある老舗旅館。話に出ているのはダイニングルームの天井部分。
*2 2004年竣工の山形にある老舗旅館。話に出ているのはダイニングルームの天井部分。
吉村
言われてみるとそうですね。気づいてなかった(笑)。
——このように見ていくと、開口あるいは、穴みたいなものが吉村さんの建築では非常に特徴的なものに見えるんですね。
吉村
建築を輪郭のはっきりした立体ととらえていることの裏返しのような気がします。建築にはいろんなアプローチがあって、たとえばルーバーを使って輪郭をぼかすような操作をする人もいます。僕はそこに行く前にまだいろいろと出来ることがあるような気がしていて、形そのものがフィルターのような役割をして外とのつながりを複雑にしたり、輪郭に対する意識を変えるみたいなことがまだできるんじゃないかと気がするんです。形態がはっきりしたものに穴をうがつという操作は、そういう意固地の現れかもしれません。
建築と楽しさと快適さ
——穴を開けるということでは、中川政七商店の社屋も特徴的で、遠近法が狂ったような、とても変わった開口になっていますね。さらには、外形もいろいろな家型を並べていて、今おっしゃった、建築のまだまだやれるところというのを実践されているように思えます。と同時に、とても素直に、楽しい、という感じも受けるのですが、吉村さんが建築をつくるときに、楽しさを感じさせるということは大きいですか。
吉村
大きいですね。思わず子どもが走り回ってしまうようなものができると、やはりうれしい。僕は僕自身を、TPOに合わせて設計スタイルを変えることに抵抗が少ない建築家だと思いますが、僕の建築を体験した人にどんな感覚をおぼえてほしいかというと、結局は、楽しいとか、見たことがない場所にたどり着いた高揚感みたいなものに集約されると思います。
——遊びの感覚というか、楽しく遊んでいるような感覚を体験してもらうというか。
吉村
それだけあればほかはいらないとまでは言いませんが。でも、逆に人に緊張を強いるような建築を想像すると、やっぱり僕はそういう建物はつくらないだろうなと思います。
——こと住宅に限った場合、楽しさのほかに、快適さというのも重要だと思いますが、吉村さんはそれをどのようにして実現しようとされていますか。また、目指すのはどのような快適さでしょうか。
吉村
快適さということで言うと、あんまり快適になりすぎてもよくないと思うんですよ。これは誤解がないよううまく言わないといけないところですが、建築は変えられないのに、家族構成とか使い方とか快適に感じるもののほうが変化してしまう。だからあまり今現在の住み方にぴったりフィットしたものにしてしまうと、やがてそれが快適ではなくなってしまうことがある。なので、暖かく過ごせるとか夏暑くなりすぎないとか、そういう基本的な性能面は押さえた上で、でも最後まで快適になり切らないぐらいの、違和感があるものじゃないと長らく使い続けられないんじゃないかと思うんですね。そうした違和感自体が実は楽しさにつながっていると思うし、楽しく居続けられるための仕掛けというか……たぶん、快適すぎると楽しくないと思うんですよね。
——違和感がある種楽しさを生むというお話ですが、その違和感が、住んでいる人のクリエイティヴィティを触発することへの期待みたいなものはありますか。
吉村
ありますね。究極的にはそこだと思うんですよね。住む人が、自分でそこを使いこなそうという意志を持ってくれない限り住宅は絶対に良くならないし、逆にそういう意志さえ持ち続けてくれれば、本当にただの箱でかまわないと思います。家主には満足して住んでもらいたいですが、でもそれは、その人がやりたいことを全部満たしてあげるということでは実はなかったりする。あんまり手取り足とりしすぎると住む人がクリエイティヴでいられなくなります。
建築家のクリエイティヴィティよりも、住み手のクリエイティヴィティをどうすると高く維持できるかというところに建築家は神経を使うべきじゃないかなと思うんですね。
建築家のクリエイティヴィティよりも、住み手のクリエイティヴィティをどうすると高く維持できるかというところに建築家は神経を使うべきじゃないかなと思うんですね。
2011年1月6日、吉村靖孝建築設計事務所にて収録。次回の【5】に続く