日本人が一番好きな住まいのかたち
司会
私のほうからまた質問をさせていただきます。『日本辺境論』という、内田先生の最近の御本と関連した質問ですが、日本という国の持つ辺境性というか周縁性みたいなものは、その住まいのあり方にどのような影響を与えているのでしょうか。
内田
全然考えたことないですね(笑)。日本の文化の周縁性の一番いいところは、外来のものに対する開放性だと思っているんです。ユーラシア大陸のどん詰まりなので、大陸のほうから次々と制度、文物、情報、知識がやってきて、それが全部列島に沿ってストックされていく。もともとあったところに、質の違うものが入ってきた場合にも、これが来たから前のを全部捨てて入れ替えようとか、来たものを追い返して、純血を守ろうというふうにならずに、なんとか辻褄合わせて、外来のものとも折り合いをつけて、受けいれて、混血して、「雑種」化するというのが、列島住民の基本的な生存戦略だったような気がします。そのような日本人の国民性格に合ったものがたぶん日本的住宅ということになるんじゃないですか。ですから、日本人が一番好きなのは「蔵」ですね。きっと。蔵って、要るものも要らないものも一切合切そこに貯め込む場所でしょ。あれは日本列島の文化構造そのものをかたちにしていると思いますよ。蔵が全体の半分くらいを占めているような住宅。収納スペースが6割ぐらいあって、そこに来たものをどんどん詰め込んでいく。捨てないで。必要があったら引っかき回して、取り出す。普段の生活では使わないものも、とにかくストックする。これが日本人の一番好きな住居のかたちじゃないかな。
大島
先生、ミサワホームで一番ヒットしているのは、蔵シリーズっていうんです、宣伝していただきありがとうございます。
内田
え、ほんとですか? 知らなかったなあ。僕みたいに建築について何も知らない人間でも、ちゃんと分かるんですよ。日本人が一番好きなのは、蔵です。
共同体と集住
光嶋
先生の場合、合気道という思想が背景にあって、人が集まってくる。集まってくるときに、機能がないというか、分かりにくいようなスペースに対して魅力を感じるっていうのは、やはりそこで想像力、イマジネーションが刺激される。ここはなんでこうなっているんだろう? ここ、こういうスペースに使えるんじゃないかっていう発見ができる喜びみたいなものがあると思うんです。今の『辺境論』のつながりで言うと、辻褄あわせをするというのは、外来の、たとえばアメリカから訳の分からないものが来たとしても、対応出来ちゃうわけなんです。想像して、自分たちの中に馴化するという意味では、似ていると思ったんですね。僕が先生に出会いある種の共同体のようなものを感じたときに、合気道というものが先生にとって大きいんだなって分かったんですが、僕は合気道はやらないので、では、どうやってそのような共同体というものをつくっていけるのかなと考えたんです。たとえば、自分の家にビリヤード台を持てる人はいないけれど、ビリヤード好きの夫婦を4組集めて、1個のビリヤード台をみんなで共有しようということである共同体が出来ると、はたしてその住まい方っていうのはどうなるのか。別に、それはワイン好きがワインセラーを買うっていうのでもいいんですが……。共同体をつくることが、建築あるいは空間につながっていく喜びみたいなものがあれば、それは建築家としてはチャレンジしたいと思うんですけど、合気道ほどの共同体の核として引きつけるものがあるのかどうか……五十嵐さんがおっしゃっていた宗教もまさにそうですよね。
内田
たぶん、可能性があるとしたら宗教かな、中心になるのがね。宗教で人が集まってくる。教育機関、道場や学校も含めて。それから、医療機関。介護とか含めて、この3つじゃないかと思うんです。ビリヤードを軸にして人が集まって、そこに永続的な共同体ができるというのはありえないと思うんです。やっぱり。長い時間の中、いろんな人が出入りするんだけれど、そこに贈与と受納という、何かたいせつなものの受け渡しがあるということが共同体成立の必須条件だから。大きな時間の流れの中にあって、過去から未来への「パス」を引き継ぐプレイヤーとして参加しているという意識が共同体には必要なんだと思う。いろいろな人が来て、何かをして、また去っていくけれども、それぞれが何かをそこに残して、それが贈り物として次世代に伝わってゆく。顔も知らない何代か後の人が、その恩恵を被ったり、その贈り物の意味を発見したりする。そういう、贈与と交換っていうパスが継続することがないと、集住というのはむずかしいと思います。
五十嵐
賃貸なら、ビリヤードを趣味とする人たちの集合住宅は可能ですか。
内田
出来ると思いますね。でも、そのかわり、けっこう出入りが激しいんじゃないかな?(笑) だって、よく負けるヤツが、「コンチクショウ!ああもう止めた!」とか言って出ていっちゃう。ありうるでしょ? 野球だって、負けてばかりいる、下手なやつはいたくないって言って、やめてしまうだろうし。そういう勝負事はやっぱり向かないんじゃないですかね。だから、麻雀もちょっと難しいですよ。麻雀好きだけで住宅をつくるというのは。
次につくりたい家
司会
私のほうから、もうひとつ質問ですが、来月、『武道的思考』という御本が出版されるようですが、武道的な考え方からすると住まいというものはどういうふうにあるべきなのか? あるいは住まいはこう扱えというような、教えみたいものがあるんでしょうか。
内田
武道的ということで言うなら、「こだわらない」ということじゃないかと思います。家というのはかくかくしかじかのものでなければならないというような縛りはない方がいい。縛りがあるというのは「居着く」ということで、これは武道的にはいちばんの禁忌ですから。僕の個人的趣味としては、日本の家屋では、伝統的な武家屋敷がいちばん好きです。簡素で家具もろくになくて、ただ畳があって、襖があって、少し身の回りの物を置くだけで、そこに住むというような。で、家族が増えてきたら、少し間取り変えたりして。そのうちに出世していって、一族郎党が増えたりしたら、もっと大きい屋敷に移っていく。隠居したら隠居所に移って。その時々の自分の社会的な機能に応じて家も伸縮自在に変わっていく。だから、家もあまりつくり込まない。どの家もサイズと細部が違うだけで、みんな似たような感じ。で、微妙に、わずか掛け軸一個とか庭に置いてある石一個とかいうところで、住む人の個性を出す。というようなのが、昔の侍たちの住み方だと思うんです。
明治の、観潮楼にしても漱石山房にしても、全部借家ですからね。自分の家をつくったわけではなくて。家族がこれだけいるし、書生もいるから、こんな家に住もうかって借りて、そこを漱石山房と名づけると、いかにも夏目漱石の家らしい佇まいになる。観潮楼っていうと森鴎外らしい佇まいになる。その時々の自分が社会的に果たすべき役割に応じて、家がそれらしく見てくる。それが、次々と変わっていく。特に隠居所っていうのが、すごく大事な気がしてるんですよ。本当は、この時期にこんな道場みたいな大物をつくるのはあまりよくないんです。だから、道場つくったら、次はすぐに隠居所の設計に入らないといけないんですよね。道場は僕自身の社会的な機能がアクティブな状態を想定してつくっているので。僕ももう60歳ですから、次はノンアクティヴな人間のための住まいがつきづきしいわけです。だから、次に住む家はプライベートで、公共性がぜんぜんない、人里離れた庵のようなものになるんでしょうね。
明治の、観潮楼にしても漱石山房にしても、全部借家ですからね。自分の家をつくったわけではなくて。家族がこれだけいるし、書生もいるから、こんな家に住もうかって借りて、そこを漱石山房と名づけると、いかにも夏目漱石の家らしい佇まいになる。観潮楼っていうと森鴎外らしい佇まいになる。その時々の自分が社会的に果たすべき役割に応じて、家がそれらしく見てくる。それが、次々と変わっていく。特に隠居所っていうのが、すごく大事な気がしてるんですよ。本当は、この時期にこんな道場みたいな大物をつくるのはあまりよくないんです。だから、道場つくったら、次はすぐに隠居所の設計に入らないといけないんですよね。道場は僕自身の社会的な機能がアクティブな状態を想定してつくっているので。僕ももう60歳ですから、次はノンアクティヴな人間のための住まいがつきづきしいわけです。だから、次に住む家はプライベートで、公共性がぜんぜんない、人里離れた庵のようなものになるんでしょうね。
五十嵐
場所はどういうところで考えているんですか。
内田
どこなんですかね? 海が見えるところとか、そこで海に沈む落日を見入りながら、犬かなんか撫でながら、「今日も暑かったねぇ」とか(笑)言ってですね、死んでいくというような(笑)、そういう家がいいですね。だから次の家は小さくて安くて家具も何にもない庵ですね。そういうのを考えております。
司会
その場合も、経験の少ない若い建築家に依頼されるんですか。
内田
どうしようかな? 今度はちょっと藁葺きの家とかそんなのがやってみたいような気もするので。ありものでいいんじゃないでしょうか? ちょっとインテリアとか光嶋くんにいじってもらって。そういや、「隠居シリーズ」ってどうですか?「庵シリーズ」(笑)絶対受けますよ! 畳で、周り3方全部襖で、3方全部ばっと開けられる。ほかには台所とトイレがあるだけ。基本、隠居・侘び住まい。高齢者が住みたいのは、そういうような家なんじゃないかな。お金があればですけどね。マンションみたいなところじゃなくて、寝転がっていると松が見えたり、起き上がると白砂青松の浜辺が見えたり。人間はそういうところで死にたいんじゃないですかね? ぜひ、ミサワホームで「終の棲家 庵シリーズ」というのを(笑)。
宴会の出来る武家屋敷
五十嵐
今回、建築に深く関わって、住宅と道場をつくられますが、そもそも住宅にそんなに関心はなかったんですかね?
内田
すいません(笑)。
五十嵐
たとえば海外とかに行って、大聖堂を見るとか、そういう経験もあまりなかったんですか。
内田
いや、行きますよ。パリのノートルダムとか、そういうところはすごいなって思うんですけど。夏に行くと、中に2000人ぐらいツーリストがいるじゃないですか。でも、宗教的な緊張感というのが途切れないんですよ。あれだけノイズがあるのに引き締まっている。すごいと思いますね。だから同じように、地方に行ったら、必ずカテドラルに行きますけど、場の力というのがビリビリ来る。昔の建物ってすごいパワースポットにあるから(笑)。
五十嵐
現代建築だとあまりそういうパワースポット的なものは……。
内田
現代建築ってパワースポットとか考えずにつくっているでしょ? 駄目ですよ、パワーを感じないものは。だから、僕が好きなのは、日本では武家屋敷。特に行ってみていいと思ったのは、むかしの藩校ですね。地方の都市に行くと、まだ残っているところがあって、塾とか藩校とか、武家屋敷はどこに行ってもすごくいいなって思う。お金があったら武家屋敷をつくりたいと思って(笑)、本当は、この建物も武家屋敷風にするはずだったです。光嶋くんには、コンセプト言ったんですよね、「宴会の出来る武家屋敷」って。