イベントレポート
イマジナリーな世界を建築は取り扱うことが可能か
門脇 耕三(首都大学東京 助教)

 Aプロジェクト連続講座第3回「都市空間をせめぎあう情報と建築」は、主催者である大島滋の「情報が混沌とした時代に、建築に何ができるかを考えたい」という言葉とともに始まる。大島が例示したとおり、チェニジアのジャスミン革命や3.11の震災発生時、実空間の混乱を情報が助長し、あるいは沈静化させたことは記憶に鮮烈だが、このように情報が強く社会に影響する時代における空間の役割を問うことが、このシンポジウムの目的である。富井雄太郎の進行により、対話を行うのは原広司と柄沢祐輔であり、世代もバックグラウンドも大きく異にするこの二人の建築家は、しかし「情報と建築」に真摯に向かい合っている点で共通しているのであり、二人の対話へ寄せられる期待の大きさは、会場を埋め尽くす聴衆の数からも窺い知ることができる。
 冒頭、まず原から紹介されたのは、Discrete City=離散都市という概念と、それに基づく南米での一連の実践である。Discreteとは、何らかの集合の構成要素のあらゆる組み合わせが等価であるような数学的構造を指す語であるというが、これを都市に対してあてはめれば、たとえばそこに住む人間が集団でいることも、一人でいることも、あるいは誰もいないことをも同様に成り立たせる都市の姿が想像できるだろう。そもそも都市とは、人が高密度に集合するために発明された物理的・空間的枠組みであるが、Discrete Cityは都市の本来的な役割を超えて、より多様な可能性を都市に投げ入れる。つまり多くの人間の振る舞いが機能的に連結されつつも、同時にバラバラな個人として振る舞うことをも可能とする都市の姿である。だからDiscrete Cityは、その言葉自体に矛盾を孕むのであるが、原は情報が台頭する現代都市の中に、既にこの矛盾状態を発見している。
 人間が集団でいる状態と一人でいる状態とは、人間同士の距離、つまり互いが近くにいるか遠くにいるかによって区別される。しかし一人でいるときに鳴らされた携帯電話を受けた人間は、もはや一人でいるとはいえまい。あるいは昨晩のメールに返信する瞬間、時間の隔たりさえ超えて、受信者と送信者は一人の状態にないと見なすこともできる。このとき両者は、空間的・時間的に遠くにいるにもかかわらず近くにいるのであり、二人が近接するのは情報空間においてである。このような実距離でない距離を建築は取り扱うことが可能か。これが原から提示された問題であった。
 対して柄沢は、建築の創作にアルゴリズムを介入させることによって、異なる距離が折り重なった空間が実現可能であると主張する。柄沢による建築には、複数の異なる幾何学原理が常に持ち込まれる。たとえば「Villa Kanousan」では、単純な幾何学に基づき、平面的にも断面的にも田の字に構成された壁とスラブが、周囲の地形と関係づけられた複雑な幾何学によって生成された仮想的なキューブでくり抜かれ、一つ一つの室は独立性を保ちながらも、しかし意外なかたちで他の室と接続される。この住宅において、単純な幾何学により配置された室同士の単純な隣接関係は、もう一つの幾何学が持ち込まれることによってあっさりと裏切られるのであり、そこにはまさに異なる距離が折り重なることによってもたらされる驚きと気軽さがある。中国で計画中であるという「方城地区計画」でも、単純なグリッドに基づく空間とフィボナッチ数列に基づく空間が重ねあわされ、「Villa Kanousan」での試みが都市レベルで展開されている。ここで異なる幾何学は強引に接続されているわけではない。両者は幾何学より抽象度の高い論理、つまりアルゴリズムによって調停されているのである。
 柄沢の実践は、ミースによって鮮やかに建築化された均質空間のオルタナティブであるとも理解可能である。現代都市において、一人の人間が機能的に連結された人間集団の構成要素であると同時に、自律的個人であることが求められるとすれば、異なる様相にまたがらざるを得ない人間を格納する幾何学もまた一意ではないのであり、だから現代都市は、複数の、しかもネットワークされた異なる幾何学を必要とする。ただし柄沢の試みは、現代社会の状況を空間的に鋭く翻訳したものではあっても、原が提示した「実距離でない距離の建築による取り扱い」という課題に直接的に答えるものではない。対話の終盤で、原により持ち出された複素数のたとえにより、議論は再度この問いに差し戻される。
 複素数とは、z=x+iyのかたちで表される数であり、xは複素数の実部=real part、iyは虚部=imaginary partと呼ばれる。この複素数と同様に、現代の我々はリアルとイマジナリーを同時に生きているのではないか。これが原の示した認識である。つまり朝食を食べながらテレビに映るニューヨークの事件を眺める我々は、朝食とニューヨークの事件を同じように身の周りにあるものとして知覚しているのであり、そこにはリアルな距離とイマジナリーな距離が同時に存在している。現代建築はリアルな距離は取り扱えても、このイマジナリーな距離を取り扱う術をもたず、だから両者を混成させる座標変換を考える必要があると原は主張する。
 無論、これは極めて道のりの険しい課題である。とはいえ、これに挑む糸口程度は見えつつあるのではないか。指数関数的に情報量が増える現代社会は、情報の整理を必要としている。原によるたとえを借りれば、無秩序に情報が降り注ぐ中で生きることは、とりとめのない想像もしくは妄想の中で生きることに似ていて、これはもはや正気の世界ではないからだ。そうして生まれる狂気を回避すべく、情報のネットワークであるインターネットに突如「サイト=場所」という概念が生まれたこと、あるいはGoogleの検索アルゴリズムが「多くのサイトとリンクされているサイト=多くのサイトと近いサイト=重心の位置にあるサイト」を重要であると見なすことを基本に置いていることなどは示唆的である。つまり情報は、自身を整理するために空間的な概念を必要としている。そしてここで必要とされる空間的概念とは、イマジナリーで不確かな世界に身体的な感覚を持ち込むことに他ならず、これは建築が本来得意としてきたことである。だから少なくとも、「実距離でない距離を建築は取り扱うことが可能か」に対する答えは肯定的なものであるに違いない。この認識を持ってして、原が冒頭で述べた「都市を情報から奪還せねばならない」との宣言はより力強い宣言たり得るのであるし、柄沢によるさらなる挑戦への期待もまた高まるのである。
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