イベントレポート
原広司
今回、実はあとふたつスライドを持ってきていて、是非それを見せたいと思っています。これは今日絶対に話した方がよいと思っていることです。 随分前のことですが、富井君が僕に「サイトの問題をどう考えるのか」と聞いてきたことがあります。だからというわけではないのですが、僕はそのことをずっと考えている中でひとつのアイデアを得たのです。また話を難しくするだけになるかもしれませんが、最近思い付いた中では特によいアイデアだと思っています。
複素数という概念の導入
原広司
複素数という概念があります。僕はこれを半年間勉強しました。ややこしいので、かじったくらいではありますが、中には複素多様体という数学の体系もあります。これは16世紀に言われ始めたもので、単純に言うと、数はリアルな部分とイマジナリーな部分から成るということです。虚数というものの発見のプロセスとしては、二乗してマイナスになるというそれまでなかった数が定められたわけです。そのことによって数学は格段の発展を遂げました。
僕はこれがどれくらい「使えるか」を考えているのです。要するに、われわれ人間は基本的にイマジナリーなものとリアルなものと、常に一緒に生きているのだと考えてみます。フィクション、想像力、夢、狂気といった精神的な現象と、身体的な現象のふたつがあるということは昔から言われていましたが、それらが「常にある」ということです。つまり、よほどのことがない限り、リアルだけという人間はいません。たとえば、100mを全力疾走する時には本当に無意識になれるのかもしれませんが、たとえば今こうやって話をしながら、「ライオンをイメージしろ」と言われれば可能なわけです。
根本的に、人間をそのようなものとして考えたらよいのではないかということです。当然、「サイト」はイマジナリーな世界のものとしてリアルな世界と別々にあるのではなく、ミックスされています。そうするとどうなるか、というのはちょっとまだイメージできませんが、遠くにいる人が遠い、近くにいる人が近いというリアルな「身の回り」の世界とは違ってきています。



これは、今話をしたようなことを複素三次元空間を使って表現したものです。当然ですが、パリは遠くにあります。しかしあなたが食事をしている時、テレビにパリが出てくることがあります。それを説明すると、リアルな世界が二次元的に広がっていますが、その上方向にイマジナリーな距離を取ってみることで描くことができます。イマジナリーなものの距離はほとんどゼロです。虚実を複素空間的に理解するとこのようなものになります。



これはさらに展開して、その複素空間を四次元的に考えるということです。まだ、先ほどの三次元ほどすっきりと理解しきれてはいませんが、継続して考えていきたいと思っています。
リアルなものとイマジナリーなものを同時に考える
原広司
建築というものは、そうして多次元的なことを考えているわけです。先ほども言ったように、明るさ、音、風速などを同時に考えます。そう考えると、次元が上がることはどうということではありませんし、次元が上がる方がかえって楽かもしれません。
とにかくリアルなものとイマジナリーなもののふたつがあり、それぞれの世界もあるけれど、それらが同時に起こっているということ。そう考えると色々とすっきりいきます。フロイトに始まり、20世紀に人間の解釈はどんどん複雑になりましたが、もう一度元に戻して、リアルなものとイマジナリーなものが同時にあるということから考え直した方がいいのではないかということです。根本的な認識を変えていくことから思考をしていくことが大切です。僕らは新しい世界を覗いた時に、あがくわけです。
ですから、一方ではあまり信用もしない方がいいのかもしれない(笑)。”Discrete”のように安定した考え方は信用できます。なぜかと言えば、”Discrete”はそもそも20年くらいずっと考え続けて、言ってよいものか、否かを悩んだ末にようやく言った概念です。この「リアルなものとイマジナリーなもの」の捉え方については、もう少し考えた方がいいと思っています。ただ、かなりいい線をいっている気がするので、若い人たちにこの思考を続けてみろ、と言っているわけです。
たとえば、量子力学は複素解析を応用しています。そこでは、仮にそういう虚の世界があると仮想し、その世界のルールを適用していけば、複雑な現象でも説明するのは易しい、という便宜的な使い方です。
僕はそれには少し疑問を持っています。「便宜的」ではなく、「本当にそう」だと解釈したらどうなのかと。われわれの毎日の生活は実際にそうなっています。パリもニューヨークも「身の回り」に同時にあり得る。ベッドルームやキッチンがどうこうというようなリアルなものとは違うことが、実際に「身の回り」で起こっています。それを捉えた上でどういう空間ができるのか、ということが問題です。イマジナリーな世界を考えなければならない、という状況に立たされています。このことについて大学などで講義をするとしても、いわゆるプランニングは成立しないと思います。イマジナリーな世界がどうなっているのかを説明できないのにプランニングはできません。つまり、近代建築はこういうものがないところで成立してきたわけです。
まったくこの話も”Discrete”なのです。距離がないようなものをどう解釈したらよいのか。電話が掛かってくることとか、小説や映画や文学の世界はそれぞれフィクションの世界だと言われるけれど、実はそうではなく、日常的に生きていること自体がものすごいフィクションなのです。
あまりうまく説明できませんでしたが、僕にはもう時間が残されていないから、重要だと思うことは思い切って言っておいた方がいいんじゃないかということで話しました。僕はいつも勉強をして頭を透明にしているから、この考えはそれなりのものだと思います。今はとにかく色々な情報が多くて、すべてをやり切ることができませんが、これはうまくいくと思っています。
富井雄太郎
ありがとうございました。少し話をずらすかもしれませんが、インターネットの中ではGoogleとFacebookが戦争状態です。その中で、より深く現実の世界へとアプローチしてくるような動きもあり、たとえば人間同士が持つソーシャルな関係を情報環境内にそのままトレースするような、つまり現実とクロスさせるようなことが起きている状況になっています。そのことも今のお話と重なってくると思います。
また、もうひとつ「サイバネティックス」の話があります。原さんは著作『建築に何が可能か』でも早々にノーバート・ウィーナーへの関心が示されていましたが、さまざまな情報や信号が行き来している状態の全体性を捉えるという意味で、活動の最初期から一貫されているように感じました。そのサイバネティックスの流れで言えば、グレゴリー・ベイトソンはユングを引用しながら「クレアトゥーラ」ということを言っています。これも虚実、つまり人間の内面や生なども含んだ交通の中に現れる圏域のようなもので、原さんの言う新しい「身の回り」ということが連想させられます。
柄沢祐輔
原さんが今おっしゃられていた複素空間の話は、今後大きな意味を持つだろうと思いました。まず複素数の概念は19世紀の前半に数学者ガウスによって複素平面として確立されましたが、そのガウスは、実は複素平面の概念を18世紀の末に発見していました。ですが、当時の常識を覆してしまう概念だと思い、ずっと隠蔽していたのです。結局、発見から30年ほど経ってから、ようやくガウスは複素平面をガウス平面として公表しました。つまり、近代においては虚数に価値を与えるという複素数の概念はタブーでした。それは非ユークリッド幾何学も同様で、社会秩序が壊れてしまうくらいのものとして考えられていたのです。
原さんは、それを建築に応用するとどうなるかというお話をされていましたが、ものすごく大変なことで、現実に見えている物体の背後に何かお化けのようなものを常に想像するということですし、相互に関係しない座標系がすべて関係している、と見ることでもあります。それは富井さんがおっしゃられたクレアトゥーラの話にも近いと思います。
実践に繋げて考えると、先ほど非ユークリッド幾何学のCADをつくった話をしましたが、そもそもこれまで誰も非ユークリッド幾何学を建築では使っていないということがわかりました。では、それをどのように使えるかと朦朧と考えていた時に、ブレークスルーがありました。
実は、先ほど原さんがおっしゃられたことと同じようなことで、現実の二次元的なレイヤーの背後に、虚数のレイヤーのようなものを用意して、それが歪むことで、現実のインターフェースである画面に描かれたものがそこに投影されるというものです。目に見える二次元のインターフェースの背後に、見えない虚のレイヤーが存在していて、ディスプレイ上で描画した図像が一旦背後の歪んだ虚のレイヤーに投影され、その歪んだ図像が再びディスプレイ上の二次元のインターフェースに跳ね返って投影される、というシステムをつくりました。現実のレイヤーと虚数のレイヤーがモニターの中にあり、それを扱うことでこのCADが完成しました。
現実に見えているものとそうでないものの関係を、見えないもので定義していくとか、別の座標系を無理やり繋いでいくとか、離れているものをあるルールを仮定して繋いでいくような建築が、複素数の概念を使った建築への応用になるような気がしています。
原広司
今、柄沢君が言ったようなことは、さっき僕が言おうとした物理学や流体力学での応用だと思います。つまり、現実の世界で水がどう流れているかを複素空間的な概念を応用することでうまく説明できるということです。しかし、実際に虚数の水が流れているとか、イマジナリーな部分がリアルに現れているというようなことではありません。けれど、既に何が現実で何が虚構だかよくわからないような複雑な組合せがあり得るのだと思います。虚実の世界を同時に重ねていく、または虚実の多次元的な世界を組み上げるということです。
まだよくわかっていませんが、少なくとも均質空間はこのことを考えていなかったと思います。リアルなことばかりを考えていて、何か重要なことを忘れているんじゃないでしょうか、万人に供する建築としては何か足りないんじゃないのか、という疑問を呈する時に、このような人間の意識がどうなっているのかという問題は重要です。
僕自身はあまりそういう傾向に陥らないように注意しているけれど、感情移入的な建築をつくる人もいますね。そのことは悪くはないけれど、モダニズムの持っていなかったものが重要だと言おうとしても、それが何かがはっきりしていません。また、アートっぽいもの、小ぎれいなもの、いろいろな建築があるけれど、何が重要なのかということがみんな曖昧だと僕は思います。
資本主義はクレイジーですから、少しずつでも正気の世界、つまり頭を冷静にしたロジカルなアプローチが必要だと思います。
僕がなぜ数学を信用しているのかというと、オイラーやガウス以降、20世紀には革命があったり、戦争があったりしている中でも、数学はそれらとは無関係に考えられ続けているからです。自分たちでルールを決めて、そこからどう思考が展開するのかということだけで、大勢の人がひとつの社会をつくってこれまでやってきています。
時にそのことが批判されたりもします。たとえばルフェーブルはそうですね。ルフェーブルの言っていることは大体よいと思いますが、数学者を批判しているところを読むとものすごく腹が立つ(笑)。何も理解しようとしないで批判してはいけないと思います。
数学者たちはひょっとしたらクレイジーなことを考えるだけかもしれませんが、彼らが考えたことには何かよいことがあるかもしれないと思っているのです。
磯崎新さんとの書簡の中にも書きましたが、われわれは資本主義の中で分裂しています。芸術家にしても生活やらに掻き回されています。ただ、数学者だけはなぜかへっちゃらなのです。そんな集団は珍しい。だからこそ信用できるというか、ある種の信奉を持っています。僕は”Discrete”、つまり距離の問題に取りつかれているのです。
柄沢祐輔
今までのお話をまとめてみると、バラバラなものが繋がっているという離散的な状態に、複素数という概念が関係しているのではないかというお話だったと思いますが、見えない繋がりというものをどう定義していくのかということが、これからの建築を切り開く上で重要になるということですね。
数学という学問は、20世紀初頭に抽象化を経て構造主義に昇華されていきますが、それは関係概念だけに特化して、離れたものの関係性を定義していくものでしたし、そういったものが新しい可能性に繋がっていくのではないかと思いました。
富井雄太郎
そろそろ時間いっぱいになってきてしまいました。対談ということだったのですが、結果的に原さんの独壇場という感じになってしまいまいました(笑)。
今でも原さんは意欲的に新しい勉強を続けられており、僕たちが考えなくてはならないアクチュアルな問題提起をされたということに、驚きを感じています。
さまざまなお話があり、まとめることは難しいのですが、今後もおふたりそれぞれが”Discrete”をめぐって探求を続けられていくのだと思います。最後に会場にいらしている方々からご質問を受けたいと思いますが、いかがでしょうか。
会場から1
座標外の想像に関して、イマジナリーな部分についてなどの話がありましたが、建築をつくる立場としては場所に着地するということがあります。その意味での思索がありましたら一言ずつお願いします。
柄沢祐輔
敷地の状況をどう抽出して、それとアルゴリズムの体系をどう重ねるかということには大きな可能性があると思っています。「villa kanousan」において、キューブの回転角の変数は敷地条件から抽出していますが、それとアルゴリズムの論理を対応させることによって、不思議な空間が生じています。その意味で、アルゴリズムと地理情報やコンテクストが対応した時に大きな可能性があると感じています。
「アーキテクチャ」の構築
原広司
少し話はズレますが、柄沢君はあと40年くらいは設計をやれると思います。僕はあと10年くらいかもしれません(笑)。もう僕はさんざん建物を建てさせてもらったから(とは言っても、沢山建てている人に比べれば少ないけれど)、今さら建築をつくることよりは、物や建築に対する考え方、つまり「空間の文法」と言っていますが、そういう方に関心があります。
つまり世界を構築する、世界の姿を示すということが「アーキテクチャ」なのです。理想を言えば、建築を建てることによって違った世界観をつくるということ。集落はそうです。世界の集落を展望すると、素晴らしい人間の世界と歴史とがアーキテクチャとしてそこにあります。集落をつくるだけではなく、トータルな世界の組み立て自体をつくる、見せることがアーキテクチャの本質です。日本で言えば、たとえば茶室や『方丈記』などの世界がそれです。
アーキテクチャの問題はもっと広く捉えられる必要があります。情報の専門家だけに言わせておいてはいけないのです。都市の中で、われわれが逆に指示できないといけない。そうしないとおもしろくないし、建築ではなく、情報をやった方がよいということになってしまいます。
一方で、建物を建てるということはすごくおもしろい。チャンスは生かさないといけない。うまくやると何かが立ち上がるのですが、それためには相当な努力をしないといけません。
そういうものをどうつくればよいかは誰もわからないけれど、今日の話のように、これまでの建築のつくられ方とはかなり違ったやり方でつくらないといけないようです。そして、できれば柄沢君のように、「方法」を持ってやるということです。それしかありません。
柄沢君がやっているような展開は、考えもなく闇雲につくるよりもいいんじゃないかと思います。今チヤホヤされていることに何ら価値を置いてはいけません。その人間のやったことが歴史の中でどう位置づけられるのかが問題です。
今日、柄沢君のやってきたことを見て、まあ大変そうだよね(笑)。ただ、それが重要で、ちょっと小ぎれいなもの、ファッショナブルなものというだけでは、10年も経てば全部歴史の中で消えてしまいます。それを乗り越えて、何とかやらなければいけない。それが表現です。お金があってもダメです。歴史の中でそこに掛けられたエネルギーこそが説得力を持ってきます。
彼は大変なことをやりそうで、おもしろそうだよね。ただ、建築的な表現になるためには、コンピュータを使ってつくられたものを、実践的で、実現可能なものに変えていかなければなりません。そのプロセスをどうするかが問題です。
“Discrete”と言うと、今地球上に60億人の人がいて、1秒にひとり会っていても、30〜40年掛かります。その全集合には天文学的なバラエティがありとても追い切れません。しかし、建築は小さな自立した世界をフィクショナルにつくることができます。人間が住むとなれば、集合の問題が必ずあり、「身の回り」をどのように処理したかということもやはり表現できます。話がまた長くなってしまうのでそろそろ止めておきます(笑)。
会場から2
柄沢さんのお話のまとめとして、「全体性を持ちながらも、個々が違った空間をつくる」、そのためにアルゴリズムがあるということでした。おふたりの話の中にも「ながら」とか「同時に」という言葉が多く出てきました。その時の様態というのが、どういうものなのか感覚的にわかりにくかったのですが、もう少し言葉を継ぎ足していただければと思います。
柄沢祐輔
全体と部分の関係が同時に存在するようにつくるということですが、アルゴリズムを用いることによって、全体としての関数と個別の変数を同時に扱い、制御することができます。「villa kanosan」では、無限にキューブが広がっているダイアグラムがあります。内部空間からこのキューブが切り取られた跡を見ると、変数を持った無限に連続するキューブを連想することができます。その関数によって切り取られた変数を「想像させることができる」ということがひとつの答えです。
「s-house」について言えば、床スラブと庇の関係が連続的に繋がっていく空間を実現しようとしていて、それが上空で切られています。そこでも反復可能なものが、途中で切れていることによって、その先にもっと反復していく状態を、均質にならないように見せることができればと思っています。
会場から3
柄沢さんのお話の中には「人」が出てこないと思いました。原さんのお話の中には人と人のコミュニティや距離感が出てきました。柄沢さんにとって、人と人の距離感やコミュニケーション・デザインという意味での情報のデザインとはどのようなものですか。
柄沢祐輔
コミュニティのデザインやコミュニケーションのデザインは、アルゴリズムによる建築やネットワーク型の空間を考える上でも最も重要な要素になると思います。今日のシンポジウムでは後半にそのテーマについて原さんと討議を予定していたのですが、どうやら時間切れのようです。是非次回のこのような機会でお話をさせていただくことができればと思います。
富井雄太郎
どうもありがとうございました。改めて、登壇されたお二方に拍手をお願いいたします。

企業情報 このサイトについて プライバシーポリシー