[西沢立衛プレゼンテーション]
家とは何か
もうひとつ、家を設計したり、見たりしていて思うことは、「家とは何か」という素朴な疑問です。家というものは本当に多様で、世界の家を見ると全然違います。おもしろいのは、どの家であっても、それが自分の暮らしとどれだけ違っていても、それが家だとわかるのです。鶴岡の民家は、寝食だけでなく、ものをつくる生産工場でもありました。中国で見た円楼という中庭式住居は全部で200人くらい一緒に住んでいて、家というより村落みたいなものでした。モンゴルの遊牧民の家は動くのですが、次第に財産が増えて、重くなって、いざ動けなくなったときに止まって、固定住居になるそうです。遊牧民の家は、実際住んでいる家族は人間よりも動物のほうが多いくらいの、すごい家です。砂漠の住居は全部が土でできている。世界の家は、家族構成が違い、家のつくりが違い、住み方も仕事も違う。でもどう見ても家なのです。この多様性を前にすると、「家ってなんだ」という問題がどうしても出てくる。特に創造的な家に出会ったときに、いつも僕は「家ってなんだ」と思います。家ってこんなもんだろうという常識が、こちらにはあるのです。だから、その常識を超える家を見たときに、自分が家と思っていた枠組みの外に建つ家を見たときに、これが家なのか?これも家なのか?と自問し、しかしそう自問しつつも、それが家だと自分が認知しているからこその驚きだということに気づくのです。家とは何か?という問いには、答えはないというか、多様な答えがあるのです。むしろその問いがそのまま建築になるのです。
環境をつくる、街に住む
家をつくるときに僕が興味を持っているふたつ目は、環境をつくる、ということです。住む環境をつくるという意味では、家だけでなく、外部空間、通りとか庭といった環境全体の調和が重要です。人間は家に住むだけでなく、街に住むし、界隈に住む、通りに住む。僕たちは新しい家に引っ越すときにどういう家にしようか考えますが、同時にどの街に住もうかを考えます。自分が住みたい環境を考えるときに、家だけでなく街のことを考える。そういう意味では僕たちは決して家に住むだけではなくて、通りに住んで、街に住んでいるわけです。建築を設計していると建築に特化されてきて、まるでそれが独立して存在するかのような錯覚に陥ってしまいますが、僕としては、「この街にしてこの家」と言える状態をつくろうという意識があります。街の個性と家の個性が合っていることが重要です。特に日本では伝統的に、家と通りは一体でした。部屋の外に縁側があり、濡れ縁、庭、生垣、路地と、家と街がつながっていく。ヨーロッパの都市のように分厚い壁1枚で都市と室内を分かつのではなくて、日本では街と家は何重ものレイヤー越しに連続しているのです。そういう意味でも日本では特に、街と家がつながる文化、それに合った暮らしがあったと思います。
森山邸——ばらばらだけど一緒にいる
《森山邸》は森山さんの家だけではありません。森山さんの家と、幼馴染の広岡さんの家、賃貸アパートの3つを建てたいというところから始まりました。
いろいろ考えた結果、最終的な案としては、賃貸アパートをばらばらにして、小さな部屋を全部単独で建てようと考えました。小さい住戸群と、森山さんの棟と広岡さんの大きな棟が並んで一緒にあるばらばらな状態を考えたのです。ボリュームは全部で11個くらいになり、その間に路地みたいなものができて、そこは庭になったり、通路になったりです。ボリュームは大小さまざまで、ランダムにばらばらに並んでいます。バラバラにするメリットは、構造が別々になるのでそれぞれ違った形の家をつくることができる。バラバラにしておいて同じ形の家を反復すると兵舎みたいになってしまうので、そうならないように3階建や1階建、さまざまな住居の変化を考えました。また、庭と家の関係も各住戸違うものを考えました。他には、住戸は全部で6世帯で、棟数は11棟で、1世帯1棟とう対応関係を作らないということです。4棟で1住戸だったり2棟で1住戸だったり、家と建築が対応していない決まりがないようにしていることが、当時は重要に思っていました。
バラバラのメリットのもうひとつですが、いわゆるアパートのように、界壁で隣同士を仕切ると、壁越しに聞こえて来る隣の声が騒音と呼ばれるのですが、各住戸を庭で分けるならば、庭越しに聞こえる音はむしろ賑わいというか、隣の人の雰囲気が感じられていいなと感じるのではないか。そういう意味でもちょっと離して庭を設けるのは意外にいいんじゃないかと思いました。各住戸は庭でつながっているともいえるけど、棟として独立しているので、ばらばらでもあります。たぶん、ばらばらだけど一緒にいるという感じをつくりたかったんだと思います。バラバラに建つ分棟形式は、戸建が密集して建つ周辺のパターンともよく調和すると感じました。
森山さんが言っていたことで面白かったのは、ローン返済が進むにつれて、徐々に住人に出て行ってもらって、最終的には全部自分の家にしたいということでした。趣味の多い人なので、これは古本の部屋、これは映画の部屋、といろんな場ができることがイメージでき、面白く感じました。竣工時は集合住宅と言えますが、森山さんが領土を拡大していった最終的な状態は森山さん個人宅になるということで、建物名は「森山邸」という名前にしました。
《森山邸》
© Office of Ryue Nishizawa
いろいろ考えた結果、最終的な案としては、賃貸アパートをばらばらにして、小さな部屋を全部単独で建てようと考えました。小さい住戸群と、森山さんの棟と広岡さんの大きな棟が並んで一緒にあるばらばらな状態を考えたのです。ボリュームは全部で11個くらいになり、その間に路地みたいなものができて、そこは庭になったり、通路になったりです。ボリュームは大小さまざまで、ランダムにばらばらに並んでいます。バラバラにするメリットは、構造が別々になるのでそれぞれ違った形の家をつくることができる。バラバラにしておいて同じ形の家を反復すると兵舎みたいになってしまうので、そうならないように3階建や1階建、さまざまな住居の変化を考えました。また、庭と家の関係も各住戸違うものを考えました。他には、住戸は全部で6世帯で、棟数は11棟で、1世帯1棟とう対応関係を作らないということです。4棟で1住戸だったり2棟で1住戸だったり、家と建築が対応していない決まりがないようにしていることが、当時は重要に思っていました。
バラバラのメリットのもうひとつですが、いわゆるアパートのように、界壁で隣同士を仕切ると、壁越しに聞こえて来る隣の声が騒音と呼ばれるのですが、各住戸を庭で分けるならば、庭越しに聞こえる音はむしろ賑わいというか、隣の人の雰囲気が感じられていいなと感じるのではないか。そういう意味でもちょっと離して庭を設けるのは意外にいいんじゃないかと思いました。各住戸は庭でつながっているともいえるけど、棟として独立しているので、ばらばらでもあります。たぶん、ばらばらだけど一緒にいるという感じをつくりたかったんだと思います。バラバラに建つ分棟形式は、戸建が密集して建つ周辺のパターンともよく調和すると感じました。
森山さんが言っていたことで面白かったのは、ローン返済が進むにつれて、徐々に住人に出て行ってもらって、最終的には全部自分の家にしたいということでした。趣味の多い人なので、これは古本の部屋、これは映画の部屋、といろんな場ができることがイメージでき、面白く感じました。竣工時は集合住宅と言えますが、森山さんが領土を拡大していった最終的な状態は森山さん個人宅になるということで、建物名は「森山邸」という名前にしました。
《森山邸》
© Office of Ryue Nishizawa
HOUSE A——庭のような家
《HOUSE A》は、木密地域に建つ個人宅です。森山邸で考えた、街と家がつながるということをここでさらに推し進めてみようということで、木造のひしめき合う街の魅力を感じながら住む家、隣の雰囲気や周辺の変化が感じられる家をつくりたいと思いました。《森山邸》で、庭というものが面白いと思うようになってきたので、庭のような住宅を考えました。《HOUSE A》ではあまり庭をつくる余裕がなかったのですが、小さい庭をいくつかつくって、室内をつくって、それらがある透明感を持って一体化する、連続する、というかたちです。森山邸では各棟が箱として閉じていたので、ここでは箱を壊して、庭と建築の一体化を試みたのです。構成としては、5 個の居間とふたつの庭がつながる、というものです。5個の居間は、居間といっても厨房設備がついていたり、浴槽がおいてあったりと、機能は各々違うのですが、ただどの部屋も、どういう設備が付いていたとしても人間がくつろぐという意味ではどれも居間みたいなものだということで、体を洗って終わりというようなお風呂ではなくて、居間のようにくつろげるお風呂、居間のようなキッチンをつくろうと考えました。また屋根が開くようになっていて、開けると中が外になり、庭と部屋がより一体化します。窓を開けて屋根を開けるとアジアの湿った空気が入ってきて、隣の料理の匂いが入ってくる、そういうアジア的な家を考えました。
《HOUSE A》
© Office of Ryue Nishizawa
《HOUSE A》
© Office of Ryue Nishizawa
Garden & House——庭と部屋の積層
《Garden & House》は、庭がより大きな中心的テーマになっていきます。巨大マンションや高層ビルが建ち並ぶ、ビルとビルの隙間に小さな谷底のような土地があり、そこに編集の仕事をしているふたり組が住んで仕事する、という建物です。とにかく敷地の状況がすごくて、ビルとビルの隙間、巨大な壁に挟まれるという強烈な環境のパワーの中でどう建てようか、ということは大きな課題になりました。いろいろと考えた結果、最終的な提案は、床版が積層していって、各床の上には庭と部屋が必ずある、という構成です。左右にお隣さんの巨大な壁があるので、床だけを積層していく。全体を三本のコンクリート柱で全体を支えて、スラブに穴を開けて全体を立体的にしようと考えました。全部の階に庭と部屋があるのですが、庭と部屋の使い方というか機能は、道路に近い下のほうはより公共的なもので、上にいくに従ってプライベートなものに変わっていきます。住み手のおふたりの住まい方というのは、住宅とも言えるし、寮とも言えるし、SOHO とも言える、いわゆる既存のビルディングタイプで言おうとするとうまく当てはまるものがないというか、そういう現代的な活力の面白さがあって、これに建築がどう応えるかという問題がひとつあり、もうひとつは環境の極端な個性と調和する建築はどういうものか、ということでした。庭を入れたのは周辺環境と家とをつながる中間領域という意味でも、全域に広がって部屋を包むようなイメージがあって、それで外形がないような建築になりました。家にもオフィスにも見えない建築にしたかったのだと思います。
《Garden & House》
© Office of Ryue Nishizawa
《Garden & House》
© Office of Ryue Nishizawa
寺崎邸——軒の建築
《寺崎邸》の敷地は、丘の上の眺めのよい場所です。ここは眺めがよく風通しがよいので、それほど苦労はなかったのですが、眺めのよい奥側を住居に、道路側を多目的な部屋にして、あいだに中庭をつくりました。また、軒をつくって、部屋と庭、庭と通りを空間的に連続させようとしています。街と建築の関係という意味で、庭を中間領域として捉えていましたが、軒も中間領域です。《森山邸》の頃は軒をつくれなくて、《Garden & House》ではスラブ下が軒下効果を持って、外壁がないのに領域がある面白さを再認識し、軒への興味が高まってきました。「軒先を借りる」という言葉がありますが、「借りる」というからには、雨宿りする人は軒下を他人のものだと理解している。しかし無断で借りている。軒は個人所有ですが、どこかで道路の一部みたいな、家の一部でもあり通りに属してもいるという、どちらでもあるような面白さが軒にはあると思います。街に住む、家に住む、街と家の調和という視点で考えても、軒は面白いということで、寺崎邸は軒を使った建物になりました。
それから、中にも外にも屋根をかけています。屋根がかかっていない外、屋根のかかった床のある庭、屋根のかかっていない土の庭、屋根のかかっている土の庭、いろいろな庭をつくりました。一見、普通の屋根がかかっているだけに見えるんですが、中から外に至るまでにいろいろな場所をつくろうとしている。軒で建築をつくるということで、屋根を大きく下げてきて、通りから中が見えづらくしていて、道と家の中が連続しながらも、外から中は見えないようにしています。
《寺崎邸》
© Office of Ryue Nishizawa
それから、中にも外にも屋根をかけています。屋根がかかっていない外、屋根のかかった床のある庭、屋根のかかっていない土の庭、屋根のかかっている土の庭、いろいろな庭をつくりました。一見、普通の屋根がかかっているだけに見えるんですが、中から外に至るまでにいろいろな場所をつくろうとしている。軒で建築をつくるということで、屋根を大きく下げてきて、通りから中が見えづらくしていて、道と家の中が連続しながらも、外から中は見えないようにしています。
《寺崎邸》
© Office of Ryue Nishizawa
里山住宅プロジェクト(仮)——どこからでも入れる家
現在進めている住宅地の開発プロジェクトです。ただの開発ではなくて、既存の木々を切らずに住宅開発しようという地元の方が始めたプロジェクトです。里山のような既存の林を残して住宅地をつくるというところに面白さを感じて、参加しています。建売住宅なのでなるべく安く建てる必要があり、木を避けながらも各住戸を地形に沿って建てると、水の流れに沿って並ぶ船団のような柔らかな配列になります。複雑な地形に沿って並べた建物群は、ランダムに並ぶ群に見えます。庭も周囲にいろいろな庭ができます。住戸プランは、昔の農家の民家を参照して、四方どこからでも入れる家はどうかと考えています。マンションのように、ドアひとつであらゆる物と人がそこから出入りするというのではなくて、裏口や表玄関、縁側、いろんな出入り口を設けて、周囲の庭に出ることができる家です。マンションのようにドアひとつの家だと、生ゴミもお客さんもそこから出るし、棺もそこから出る。物も人も一緒くたなのですが、出入口が多様な家というのは、意外に機能的だと思っています。生ゴミは後ろから、お客さんは前から、子どもは縁側から、というようなかたちです。またドアの幅が大きかったり小さかったり変えることで、人間や自転車、ゴミ、いろんなものに対応ができます。高齢者住宅では寝たきりになると人は外に出て行かなくなって、むしろいろんな人が家にやってくる。ヘルパーやケアマネージャー、訪問医、床屋、歯医者までがやってくる。車椅子、ストレッチャー、大小いろいろです。そうすると狭いドアを一個に限定するマンションよりも、昔の町家や農家のような、動物や親族が激しく出入りする家のほうがこれからの時代には合っているのではないか。特にここでは大きな庭があって木々が残る場所なので、庭とのつながりも多様なかたちにしようと考えています。
《里山住宅プロジェクト(仮)》
© Office of Ryue Nishizawa
《里山住宅プロジェクト(仮)》
© Office of Ryue Nishizawa
家が面白いのはやはり、人間が生きるということがこれ以上なく建築になっているからです。家を見れば、人間がどう生きたかがわかる。生き方が現れるという意味では、時代とか社会の価値観とかも、そこに現れると思います。庭付き戸建住宅駐車場3台という家を見たら、人々は通勤社会、自動車社会ということを感じます。家は人間の生き様を示し、また社会のありようを示すのです。そういう意味でも、家を考えることは、社会、世界を考えることだし、人間について考えることだと思います。
僕はこれまでいろいろな住宅に影響を受けてきました。この前は東北地方で、保存された民家を見に行きました。それは素晴らしい民家でした。寝起きするところがあって、働くところがあって、住宅でもありかつ仕事場でもあり、また、それらと一緒に、馬屋がついている。屋根裏にお蚕様がいる。みんな一緒にひとつ屋根の下に住んで、また働いている、人間と動物の生活共同体です。というと一見突飛に聞こえるけど、寒冷地なので、厩と住居、作業所がバラバラに建つのではなく全部一体になって、馬も人間も蚕も一緒に住んでいるというのは理に適っていると感じました。あらゆるところに合理精神にあふれていて、感心しました。
ヨーロッパでローマ人の住宅を見たときも、その生活の破天荒さに感動しました。過去の世紀の住宅を見るたびに素晴らしいなと思うのは、今は住まいとしては使われていない廃墟だったりするのですが、どう住んでいたかが見えるのです。家を見ると、住人がどういう仕事をしていて、どういうふうに食べて、どうやって寝起きして、どういう家族構成で住んでいたか、どんな街に住んでいたかが見えるのです。ですから住宅には、人間がどう生きるのかを空間的に提示する力がある。ローマ時代の邸宅でも日本の民家でもル・コルビュジエの建築でも、建築は人間の生き方を空間的に現します。その人間の生き様を見て感動する、ということがひとつあります。
建築は人間の生き方を示すということで、どういう生活がいいかなあと考えて住宅をあれこれスタディしていると、どうしても問題が建築単体ではすまなくなっていきます。たとえば家具やカーテンのことを考えたくなったり、庭や街のことを考えるようになる。僕たちが生きる上で必要な身の回りの道具や空間について、どう組み立てるべきかについて考えるようになる。生きる上で必要とする環境全体について考えるようになります。どう生きるかが問題になってくるのは、家の面白さだし、またそれは家を超えた問題にもなっていきます。家というのは、想像力を喚起させるすごいパワーがあるわけです。家がもつそういう広がりを、ぼくは素晴らしく感じています。