イベントレポート
■講座趣旨:

このシンポジウムは、Aプロジェクト活動20年を記念するものです。今回から3回にわたって連続セミナーをおこないます。3回に共通するテーマは、時代が大きく変化していく中で、私たちをとりまく住環境がどう変化してきたのか、また、どう変化していくかを考えるということです。第1回目は、「住宅産業と生産」について、第2回目は「これからの住まい」について、第3回目は「建築の未来」について討議します。
さて、今回のテーマはミサワホームのビジネスの根幹でもある工業化住宅についてです。工業化住宅は1960年頃に誕生し、社会的なニーズに応えながら、現在にいたるまで半世紀近い歴史を歩んでいます。当社も来年創立50周年を迎えます。当初はいうまでもなく、高度成長と共に、工業化住宅という名の下に住宅を大量生産することでその役割を果たしてきました。近年は、地球温暖化による環境対応策としてCO2排出量削減に向けた躯体の高断熱化などの商品開発を進め、住宅の性能は格段に向上してきました。
住宅着工件数のピークは80年代の年間160-170万戸でしたが、最近では80-90万戸にとどまっています。今後ますます減産体制になっていくことは間違いなさそうです。これらの問題は住宅産業だけではなく、日本の製造業全般に言える問題でもあります。今やテレビも住宅も部品を集めれば簡単につくれる時代になっています。今までのような大量生産を前提とした商品開発や生産体制の見直しが今すべての製造業に投げかけられています。これから先私たちは、何をどうつくって、社会を維持していくのか。今、ものづくり日本における、製造業の真価が問われています。その先端に私たち住宅産業は立っているという自覚が必要です。そして住宅の社会的役割は、ハウスメーカーだけでなく、ビルダー、建材メーカー、設計事務所などが担っているのです。
ハウスメーカーにとっては厳しい時代を迎えていますが、今こそ変わらなければいけないという危機感を持ち、それを逆手にとって厳しい時代だからこそ新たな動きを察知して、これからの希望の火となればいいなと思っています。今回は、東京大学大学院教授の松村秀一先生と、建築家の吉村靖孝さんと、編集者の橋本純さんを司会に迎え、「住宅産業と生産」について議論できればと思います。

ミサワホーム株式会社
Aプロジェクト室 室長
大島 滋




■日時:2016年2月12日(金) 19:00〜21:00
■ゲスト:松村秀一×吉村靖孝×橋本純
■会場:新宿NSビル16F インテリアホール
■主催:Aプロジェクト
リーフレット
 
■出席者略歴

松村秀一
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授。 1957年兵庫県生まれ。1980年東京大学工学部建築学科卒業。1985年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修了、工学博士。1986年東京大学工学部建築学科専任講師、1990年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻助教授、2006年同教授。その間、ローマ大学、トレント大学、南京大学、大連理工大学、モントリオール大学、ラフバラ大学で客員教授を歴任。日本学術会議連携会員

吉村靖孝
1972年愛知県豊田市生まれ、1995年早稲田大学理工学部建築学科卒業。1997年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了。1999年〜2001年MVRDV在籍(2001年 川邊真代(吉村真代)、吉村英孝とともにSUPER-OS設立)2005年吉村靖孝建築設計事務所設立。2013年〜明治大学特任教授

橋本純
1960年東京生まれ。1983年早稲田大学理工学部建築学科卒業。1985年同 大学大学院修士課程修了。1985年株式会社新建築社に入社、『新建築』、『住宅特集』、『JA』の編集長、『企画編集部統括』などを経て、2008年から同社取締役。2015年株式会社新建築社を退社。2015年株式会社ハシモトオフィスを設立。現在は、株式会社ハシモトオフィス代表取締役、株式会社新建築社社外取締役、東京理科大学非常勤講師

<松村さんプレゼンテーション>

橋本
まずおふたりとの出会いについて少しお話させていただきます。遡ること十数年前の1997-98年ごろ、当時私が所属していた新建築社の住宅特集編集部で、松村先生と「ネオ・ヴァナキュラー考」という連載記事をやっていたのです。その連載を始めた理由は、たくさん住宅を取材していると大半の住宅の外壁がガルバリウム鋼板かジョリパット吹き付けのどちらかで、それが日本の住宅地の風景をつくっていると感じた。これはどういうことだろうと疑問に思いました。住宅をつくっている材料の問題をもっときちんと考えないといけないと思い、2年間くらい連載を続けました。連載終了後には、彰国社から書籍として出版されています。 ほぼ同じ時期に、吉村さんは大学院生だったと思いますが、「ゲル研究会」という有志が集まってモンゴルのゲルの研究をする研究会があり、わたしもそこに巻き込まれていました。モンゴルのゲルは近代的なインフラにしばられない可動式の膜構造住宅ですが、そこにパラボラアンテナをつけると、日本の大相撲の勝ち負けをオンタイムで知ることができる。そういうことを視野にいれながら現代のゲルをつくったらどういうところができるか、ということを考える研究会でした。 それから17-8年経ちましたが、このおふたりと一緒に話ができるのは何かの縁だなと思いながら今日はやってきました。今日はまず最初に松村先生に、続いて吉村さんにプレゼンテーションをしていただこうと思います。松村先生には、そもそも住宅産業とは何なのか、どのような状況から生まれ、どのような産業で、現在どういう状態なのかについて研究者の立場からお話いただきます。吉村さんには、これからの時代に、建築家が住宅を設計していくことは一体どういうことで、そこには何が求められているのか、といったことをお話していただき、そこに出てきたキーワードをひろいながらクロストークしていきたいと思います。では、松村先生お願いします。
松村
工業化住宅のこれまでと、現在の状況認識をお話したいと思います。そもそも今の工業化住宅のメーカーが起こるのは1960年頃です。50年代から企業として存在していたところももちろんありますが、工業化住宅事業が始まるのは1960年からです。ですから、ぼくにとっては自分よりは新しいものという感覚ですね。住宅市場がこれからでかくなる1960年の時点で、年間40万戸程度だったものが、1960年代後半には一気に100万戸を突破する。そういう時代でした。これはチャンスだとなって住宅メーカーが起こる。



<スライド1>

1959年には大和ハウス工業のミゼットハウス(左上)が勉強部屋として開発されました。これはまだ「住宅」の規模ではなかったのですが、当時の新素材軽量型鋼を構造に用いたパネル構法によるものでした。

右上は、当時積水化学工業が1960年に発売した「セキスイハウスA型」という商品です。積水化学は、戦後の財閥解体で、旧日本窒素が、大きくは旭化成とチッソとの3社に分割されたうちのひとつで、この住宅を開発した部門が、積水ハウス産業として独立しました。右下が松下1号型で、今のパナホームです。当時の松下電工の子会社でナショナル住宅建材が手がけました。松下幸之助さんが「住宅をやりたい」と言って始めた会社で、当時関わっていた人たちから直接話を聞きましたが、みなこんな産業になるとは思っていなかったそうです。時代は工業化で、前近代的な大工の木造住宅なんてなくなるべきだと考える人のいた時代ですから、工場でつくって現場で組み立てるという次世代の事業に対して情熱を燃やしていたわけです。まさかそんなに売れるとは思っていなかったけれど、どんどん売れて10年ほど経った1970年頃には、年間1万戸くらいを売る会社がでるほどになっていた。

多くのハウスメーカーが販売量を拡大し、技術開発を重ねて生産をさらに大規模化していく。それが1973年まで続きます。しかし、1973年にオイルショックが起き、年間190万戸だった市場が翌1974年には130万戸台に落ち込む。突然2/3になるわけです。そしてたくさんあったハウスメーカーは、次々になくなっていきました。行政的にもテーマは量から質へとなっていく。現存している企業も大変苦しい状況が続き、なんとか凌いできたところが大手として残っていく。



<スライド2>

ミサワホームのO型は1976年に発売されています。80年代は住宅の商品化の時代です。それまでメーカーの住宅にはその構法に従って名前が付いていました。A型とかB型とか、ミサワホームだとF型、C型とか。それらがそのまま商品名になっていました。ところが、ミサワのO型はそういうものではなかった。プランやスタイルをパッケージしたものに名前を付けたのです。こういうパッケージ化のことを当時は「商品化」と呼んでいました。
多くの大学の先生は、プレハブ住宅は決まった間取りの建物を売っていると思っていた。しかし、1970年代後半のプレハブ住宅は一般にはそうではなく、佐藤さんだったら佐藤さんの間取りをつくってあげる、田中さんだったら田中さんの間取りをつくってあげるというようにいわば自由設計を標榜していた。そのことをわかっていない人がものすごく多かった。一般の人はわかっているんだけど、建築の先生ほどわかっていなかった。当時の多くのプレハブ住宅は、プランが標準化されていませんでした。だからこそ昭和40年代、市場を拡大することができた。しかし、ミサワホームのO型は間取りもせいぜい4種類くらいで、外観もはっきり決まっていました。ミサワホームは突然、むしろ間取りを決めて付加価値や提案を盛り込むことで、識別性を高めていこうとした。全国を旅していると必ずO型がある。ミサワホームから聞いた話だと、年間で多い時はひとつのモデルで7,000棟くらい売れていたそうです。



<スライド3>

当時何が起こったかというと、ツーバイフォー工法(建築基準法上は「枠組壁工法」)がオープン化しました。たとえば三井ホームの初期の技術を立ち上げた阿部市郎さんと話をしていたら、以前に勤めていた永大産業では、開発とは技術であり、工業化住宅の認定取得であって、そのための実験をやることでした。ところが三井ホームに移ると、オープン化されたツーバイフォーでいこうというので、技術開発する必要がない。開発が急に商品開発になったという話を聞きました。外観はどうするとかプランはどうするとか、住まい方はこうだよねということが開発の対象になる。それに影響を受けてハウスメーカーはみんなそういうスタイルになっていく。象徴的なのは三井ホームの「コロニアル80」という商品です。住宅系の建築家の中にはこれをショートケーキハウスと揶揄する人もしいました。

工業化住宅の可能性が今回テーマですが、その後の各社の様子はフォローしていません。その理由は、どんどん商品が開発されて、商品が多すぎて何が何だかわからなくなり面白くなくなったからです。たまにメーカーの人に自分のところの商品を見たらわかるかどうか聞くんですが、「いやー、今はわからないですねー。うちのかどうかさえわからないんですよ。みんな同じような製品を使っているので」と言う。そういう時代に入ってきている。一般の方から見ても、商品名がまずわかりにくい。商品名になりそうな言葉を各社が我先にと登録してしまうので、残っているのはマイナーな言語のものしかないというようなことになっている。30年くらい前から、英語でまともに使える商品名なんてないんですよ。もう商品が多すぎて識別性がなくなってきている。そうすると、すべてが窓口でしかないということになります。売れる商品を開発する時代から、なにかがずれてきた。

この30年間は私が個人的に関心を持たなくなり追いかけてこなかったので、ここからはこれからの話になります。まず住宅をめぐる環境が非常に大きく変わります。 新築住宅の着工数は、予想では今年は90万戸は固いだろうと、今年は100万戸超えるかもしれない。だけど来年どうなるか……、なんて話を日本ではしていますが、先進国のここ20-30年の新築市場は人口1,000人当たり2-6戸の間におさまっています。イギリスもアメリカもフランスもその範囲内です。1,000人の人口がいたら、最低ラインが一年間で2戸、多いところで年間6戸。6戸というのは、1億3,000万人の国だと80万戸。2戸というのはだいたい26万戸。だから日本も年間100万戸時代が終焉して、26-80万戸くらいのゾーンの中にくるんじゃないか。これがひとつ目の変化。
ふたつ目に、これも20年ほど前から言われていることですが、工業化住宅自体を変える必要があります。工業化住宅と在来木造の内容を比較しても、実は今ではたいして変わらない。
まず軸組はどちらもプレカットですし、合板とともに現場に搬入して組み立てるだけになっている。工業化住宅とそれ以外の差はほとんどないと言っていい。プレハブ的手法が広く行きわたっている。その中で工業化住宅の特徴は何かというのが大きなポイントです。
3つ目に、すでにあるまちの中に建てていくことについて。昔は、まちは開発するものでした。切り開いた土地に真四角の住宅を建て住んでいた。それが40年も経つと結構風情のあるまちになっている。まちはつくるものだったんですけど、今はまちはそこにあるもの。すでにまちがあるときに何をしたらいいかという話ですね。
「箱」から「場」へ
松村
「箱」から「場」へという産業の対象が変わるときに、3つ変わることがあります。「豊かさが変わる」「相手が変わる」「集約が変わる」です。 まず豊かさについて。住宅を建てるときに、物としての豊かさを目指していたんだとすると、その豊かさは今ある住宅の多くですでにかなりの程度達成されている。これ以上性能を上げることが豊かさにつながるとは誰も思っていない。断熱性能が上がったから豊かになるとは直接的には考えていないので、「箱」が貧相だった時代はきちっとした箱を目指していたけれど、今はそうではない。
「勉強机」から「ふかふかのソファへ」。『2025年の建築「7つの予言」』という本を書いたのですが、それを私の先生である内田祥哉先生にお送りしたら真面目に読んでくださって「松村くんの言っているふかふかのソファというのは和小屋のことじゃない」とコメントをくださりました。「いや、それ違うんです」と言ったけれど、よくよく考えてみるとそうかもしれないと最近思います。きっちりとした何もかも埋め込まれた「勉強机」じゃなくて、心地よい「ふかふかのソファ」みたいなことが、これからの豊かさの非常に近いところなんじゃないか。

ふたつ目は「相手が変わる」。相手にするべきニーズが本質的に変わってきているんですね。家はありますという話になってきている。「ないから建てたい」から「あるけど何とかしたい」へ変わる。
住宅のプロに求められるのはきちんとした建物を届けることではなく、あるものをうまくマネジメントして、より望ましい生活の場を提供することになってきました。 今のふたつは小規模な工務店でも設計事務所でもすべてに通用する話ですが、大きな住宅メーカーに特有なこととして「集約が変わる」ということがある。今は各社クローズドなシステムで展開しています。それぞれ違う工場を持って、それぞれ違う構法でそこしか施工できないというクローズドなシステムのまま、流通面での集約に依存しても、これまでのような効果を発揮されにくくなっています。今や広範に工業化が行きわたって、Amazonでモノが届く時代になってきている。日本中にプレカット工場があって、パネル工場があるという時代になってきたときに、どういうビジネスモデルを構築していくのかということです。

新築じゃない仕事が増えてきた現代は、20世紀型の集約をすることができない。なぜかというと、1970年代の新築の時代は、人生の組み立て自体がステレオタイプだった。人生の目指すべき地点はみんなほぼ一緒で、同じような住宅を同じような年齢で、同じように借金して建てればいいという社会だった。今はどうかというと、それぞれがそれぞれの生き方を見出していく時代に入っていて、それは集約できない。となると、集約によって成立していたクローズドなシステムが、これから何を集約していけばいいか、ということになる。 僕が最近考えているのが、やっぱり営業ではないかと。これまでは商品が営業をサポートするツールとしてできてきた。開発側の目線では自分たちが考え出したものを営業は売りに行っているという捉え方もできますが、その捉え方には将来性はない。そうではなく、営業をサポートするツールをつくっているんだと考えることが重要です。では何がその先に必要になるかというと、営業一人一人のレベルを上げること。そのためには、営業スタッフの個人個人の経験がある種の集合知化すること、つまり知識を集約することが求められる。これは今までの商品の形ではないかもしれません。生活の改善点から最善の方策を組み立てる能力が必要でしょう。営業の資質をその方向に高めることはどれほど大変かまったく想像できませんが、そういうことになっていくでしょう。
橋本
松村先生、ありがとうございました。では次に吉村さん、お願いいたします。
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