イベントレポート
グッドデザイン賞と住宅産業
門脇
だんだんとハウスメーカーと建築家のそれぞれの課題が見えてきたように思います。その深部には、住宅の価格の問題があるという話も出てきました。ここで、あと二つだけお話をうかがいたいと思っています。一つはお二人ともグッドデザイン賞の審査員をされていますので、その審査を通じてお考えのことをお話しいただきたい。もう一つは建築家の役割ですね。これからの住宅産業において、建築家は何をするべきか。それぞれご自身のお仕事に引き寄せながらお話いただければと思います。
難波
グッドデザイン賞における建築と、ジャーナリズムがとり上げる建築との違いがはっきりあります。グッドデザイン賞に出していて賞をとらない良い建築がたくさんあります。日本の建築家の建築、ジャーナリズムに取り上げられる建築はデザインというよりどちらかというとアートなんです。フランス系というかボザール系というか。グッドデザイン賞はどちらかというとプロダクト寄りです。無名性や大量生産といった条件がいろいろあるんですけど、決定的な条件は社会性です。社会的なメッセージを持っているか。今はアトリエの住宅も応募してくるんですよ。元々は工業化住宅のためにつくられた賞だし、プロダクトのためにつくられた賞なんだけど、今やデザインの概念が広がったせいもあり、アート的な建築も応募してくるようになった。逆を言えば、建築が社会性を持つことを世の中が認めるようになってきたということでもあります。にもかかわらず、相変わらず建築の中にはアートとデザインの間に非常に大きな隔たりがあります。あるいは建築ジャーナリズムとグッドデザイン賞の相違と言ってもいい。僕たちが推薦したものが建築以外のメンバーに理解されないことが多々ありましたから。それは何故かと聞いてみると、いくらかっこよくても売れてないとだめじゃないかとか、売っている会社がサステナブルじゃないと意味ないじゃないかとか、社会的にトータルな目でみられる。ある意味で尺度が広くハードルが低いのがグッドデザイン賞で、建築ジャーナリズムとはそこが違います。
門脇
建築家がデザインという領域に踏み込めていないというお話ですね。
難波
最近は地方の建築家が、商品化住宅のようなことを少量多品種でやっています。そういう人たちが唯一認められるパイプがグッドデザイン賞です。そういう意味で非常に重要な賞だと思います。
門脇
それは建築家が抱えている課題という二つ目の質問に対する答えだとも思いますが、ハウスメーカーはその「デザイン」の領域に踏み込めていますか?
難波
ハウスメーカーは僕は良いと思うんですが、問題はデベロッパーですね。やたらと超高層マンションを建てるデベロッパーが住戸数を増やしているので、本当はそちらの方が問題が大きいけど、ここで話すことではないのでやめておきます。(笑)
古谷
難波さんが言われたのは要するに狭義のデザインね。グッドデザイン賞は元々はその狭義のデザインのためにあった。基本的には市場に流通するプロダクトです。それがマーケットの中でアドバンテージを持つためにある賞だった。量産されて市場に出るものに対してそれが良いデザインであるかないかというのはすごく分かりやすいひとつの構造なんだけど、住宅や建築にはそれに合う物もあれば合わない物もある。一品生産的なアーティスティックな建築や住宅はそういう主旨からすると全く合わない。それがたくさん売れるという必要も指標もないわけです。にもかかわらず今混乱が起っているのは、そこにアトリエの建築家が一品生産でつくったものが応募されてくる。しかし、それらが全て汎用性や市場流通性がないかというとそうでもない。一人の人が一人の施主のためにつくった住宅の中にも、そのアイデアが汎用的に展開できるものもあるんです。僕は、そういう見方で個人の建築家が出してきた一品物の中に、汎用的な展開可能性があるかないかで、ピックアップするかしないかを見極めています。
一方で、ハウスメーカーが応募してくるたくさんのモデルもあります。その中で優劣を見定めるときに、すべて汎用性と市場展開性を備えている前提で純粋に姿形の優劣で決めれば良いかと言うとそうではない。ハウスメーカーのモデルの中で良いデザインだと評価されるためには、型として供給して住まい手が住みこなすというやり方ではなく、住み方に対して革新性があり、そのアイデアに汎用性があるかどうかがポイントです。他のメーカーが追随できるかもしれないようなものが含まれていれば票を入れますね。
その中でもっとも票が入れにくいのが、超高層マンションなんですよ。超高層マンションの中に、このアイデアが繰り返しつくられて行くといいな、と思えるような物があるかというと、なかなか見いだしにくい。数の応募はたくさんあるけど、ピックアップできるアイディアは非常に少ない。これは難波さんと同じような感想です。仮に建築の中ではなんとなくわかっても、全ジャンルの審査に持って行ったときに他の分野の審査員に理解してもらえない。他のジャンルのいわゆるデザイナーには響かないようなところはありますね。
もうひとつ課題があります。グッドデザイン賞という賞の知名度があまりにも高すぎて、グッドデザイン賞受賞というとクライアントも非常に喜んでもらえる。こんなに一般に流布している賞は他にないわけで、一般の人からすると建築の賞は知名度が極端に低い。先日JIAの日本建築大賞をいただいたんですけど、クライアントからはそれはどういう賞ですか?と言われるくらい。それに比べるとグッドデザイン賞の知名度は抜群なので、これはもはや別の価値を持っていると思いますね。建築としてはその価値を我が物としたいところはある。
住宅産業の中で建築家にできること
門脇
建築の場合も、ある種の汎用性を備えていることや、繰り返し生産されることがグッドデザイン賞の前提になるべきだということですね。しかし多くの建築の賞は、そもそも建築の汎用的・量産的側面を汲み取ったものではない。ハウスメーカーと建築家という今回のテーマに対しても、非常に示唆的なお答えだったと思います。そうしたことをふまえて、ハウスメーカーとの協働に関して古谷先生がどのようにお考えか最後にうかがえますか?
古谷
地方都市でその土地のクライアントの要請を受けて、その土地にふさわしい風土性に根差した快適な住まいを求めたいという層に対して、真摯に答えている建築家がいっぱいいます。その土地で供給可能な素材を積極的に使って、その土地でメンテナンスできる構法からデザインを考えようとしている人たちです。非常に小さい単位ではありますが、繰り返し生産できるようなデザインや構法を考えるということが、大事なことだと思っています。ビッグハウスメーカーと協働出来るか分かりませんが、地方でそうした活動をしている方々はエンカレッジしたいと思います。そうした試みのひとつがJIA東北支部の東北住宅大賞です。東北6県を3日間で審査するので大変ですが、東北にはいろんな気候風土があるし供給される材料も様々です。それを使ってつくる住宅はその土地に根差してないとつくれないので、大きなメジャーマーケットの中ではとてもじゃないけど扱えない領域です。そういう領域をアトリエの建築家が担って行くことは可能だし、僕の立場としては賞やメディアを通じてそれを励まして行くということを続けて行きたいと思っています。
門脇
地理的な固有性が認められる範囲の中での繰り返し生産というものは非常にリアリティがありますね。その範囲を超えてしまうと、住宅は地理的な固有性と切り離されてしまう。このことも、大手のハウスメーカーが抱える課題なのかもしれません。
さて、そろそろ会場からもご意見をいただきたいと思います。難波先生のプレゼンテーションで話題に上った吉村靖孝さんが会場にいらっしゃっているので、ご感想をいただけますでしょうか?
自由な工業化は本当に幻想なのか?
吉村靖孝
難波先生がおっしゃった、自由な工業化はないんだ、というお話についてもう少し掘り下げて伺いたいです。私自身はコンテナ規格を流用した建築や、量産を意識しながら「ccハウス」という著作権の一部を放棄した住宅を考えたことがあります。それは建築家のクリエイティビティが発現する場がハードウェアまで及ぶ必要はないんじゃないか、図面でとどめてその先は放棄してしまう、というものです。図面で終えて複製を許容することで、建築家の強いデザインが量産、複製されるきっかけにむしろなり得るんじゃないか、ということを考えました。バルセロナパビリオンがレプリカであり、伊勢神宮がレプリカであるように、むしろ建築家のオリジナリティやクリエイティビティはビジョンの中だけにあって、ものとしての建築はいつか寿命が絶えて、その先はビジョン強ければ複製されるし、弱ければ淘汰されるような状況が出てくるような気がします。量産とは少しニュアンスが違いますけれども、建築家の個性がむしろ量産のきっかけになるような状況もあるのではないかと思うのです。
それと並行して量産技術の制約がだんだん減ってきていて、大きなトラックで大量に現場に届くだけじゃなくて一品ずつ宅急便で届いたり、あるいは3Dプリンターのようにそもそも工業化を必要としない状況が出てくると、昔は建築家が扱っていたような特殊な建築が複製可能になってくる状況もあるんじゃないか。量産と量産されないものの垣根がすごく小さくなってくる世の中がだんだん到来しているような予感もあり、そのときに本当に自由な工業化はないのだろうかということが気になります。
難波
でもね、たとえば「セキスイハイムM1」でも大野さんは無目的な箱って言ってたんですよ。でも無目的なわけないんですよね。実は昔セキスイハイムと「箱の家」をM1のシステムを使ってつくるプロジェクトがあったんですが、結局機能的なスタディがうまくいかなかったんです。それはなぜかと言うとM1は運搬の寸法でできていて、生活の寸法じゃないからです。ものすごく不自由なんだよね。そういう不自由さの側からどういう生活が出来るかを考えたのが、林泰義さんと富田玲子さんの「夫婦の家」なんですよ。家族みんな優秀な建築家だから、普通に設計したら夫婦がうまくいかなくなる(笑)。だから仕方ないからセキスイハイムにしよう、と言って建てた家です。まだ立派に建っています。ものすごく制約があるから(システムにオリジナリティがないから)彼らはそこに同化できたんですよね。実際にはものすごく生活を制約してますよ。もうひとつ、吉村さんはコンテナでやっていたからわかっていると思うけど、物の制約力はすごいので、それで生活が制約されないということはないでしょ。それを自由と言ってしまうのは嘘で、やっぱり僕たちがやらなければいけないのは、その条件をどう活かすかですよね。制約の中で可能な生活を提案するようにすべきです。本当は僕としては逆で、生活からつくり方へアプローチしたいんですけど、やっぱり工業化というのはつくり方が伝統的に先にあるから、それをどう活かすかという発想になる。ある意味で自由じゃない。自由の定義によりますけどね。難しい話をしました。
門脇
どんなに生産が自由になったとしても、プロトタイプそのものに可能性があると難波先生は考えてらっしゃると思うのですが、いかがでしょう。
難波
プロトタイプという言葉も、かつてはプロダクション(生産)のタイプだったんだけど、今は住まい方や空間構成のプロトタイプなんですよ。僕は両方一緒に合体して提案しないと意味がないと思っている。
コンセプトを再現する「MUJI HOUSE」
門脇
現代的な状況においてのプロトタイプは、つくり方のシステムだけでなくライフスタイルが重なっている必要があると。他に、会場からご質問ありますでしょうか?
川内
箱の家を商品化させていただいています、「MUJI HOUSE」のカワチと申します。一般的にハウスメーカーという言葉は、工業化住宅をつくるメーカーと定義されますが、「MUJI HOUSE」は難波先生がおっしゃったように、当初パネル化を目指していましたが挫折して、SE構法という木造軸組のプレカットを使って現場でつくるというやり方です。基本的には「箱の家」と同じ間仕切りのないキャンバスのような家という言い方をしています。そこではまさに自由な暮らしをしてくださいと言いつつ、実はそこで暮らせるような志向の人しか「MUJI HOUSE」を買おうと思わない、という家をつくっています。一年に250戸程度ですが、プロトタイプ250戸を再現させているとも言えるわけです。まったく自由につくっているのではなく、箱の家のコンセプトは崩さない範囲で、SE構法でもコンクリートでもパネルでも最終的にそのコンセプトになればいいと考えています。工業化を目指すのではなくて、同じコンセプトにおけるかたちをつくることを目指しています。イノベーティブな暮らしができる再現性のある家をつくり続けることが、無印らしいハウスメーカーを目指すことかなと考えています。
難波
当初のコンセプトからずいぶん変わりましたね(笑)。
川内
工業化やパネル化よりも、同じコンセプトを再現することの合理性を目指している、という認識で私は取り組んでいます。
門脇
古谷先生もつくりかたの仕組みが形に現れてきてもいいじゃないかというお話をされていたかと思いますが、つくり方と形の問題についてお考えを是非うかがいたいと思います。
古谷
今のお話は戸惑う話で、さっき私が言ったそれぞれが持つ背景を特化した個性とは少しちがう回答ですね。つまりどんな構法でもこのコンセプトを有した家が再現されて行くということに、「MUJI HOUSE」の商品の枠組みがあると。コンセプトそのものが商品として販売可能になるというのは別の意味で可能性があります。いわゆる住宅がフルセットで構法も材料もそろって商品だと思っていたものが、こういう家をつくるとその商品の価値が発揮できますよというコンセプトブックのようなもの。吉村さんの「ccハウス」の図面だけ売るという話にも少し似ていますが、コンセプトブックだけが売れて対価が得られる状態をつくるというのは今お話をきいて可能性があるなと思い出しました。
現代のライフスタイルにふさわしい新しい型
 
暮らし方のコンセプトを売るということを考えると、あるときマンションの住戸タイプの話をしていたときに、とかくそこにデザイナーや学生がアイデアを持とうとすると極端にプライバシーの度合いが低い物がでてきたりして、それではとても販売できないと売り手側に言われること多いんです。ひるがえって我が家を考えてみると、モンゴルの家ほどではないにせよ、家族のプライバシーは軽く扱われています。子供にとっては非常に不満足だったのかなと今では思います。でもそうしたら、家を出ていって二人ともとっとと結婚しましたから、これは晩婚化と言われている状況にたいしてけっこう貢献したのではないか。つまり過度に子供室のプライバシーを上げた今の3LDKが、ニートや引きこもりを生んでいるのではないか、と思われる節が出てきました。子供が早く親元から出ていきたいと思える間取りの方が良いぞ、ということをコンセプトにした家をつくっているような気がしてきました。ワンルームの家は、現代の社会問題にたいして家族の生活や生業との関係といった、原点的なところに作用する可能性があるのではないか。都心集中の個室群化の先にはハウスメーカーの未来はないですよね。
門脇
ライフスタイルに対応する空間の形式としてのプロトタイプという考え方もあり得るんじゃないか、というご指摘ですね。難波先生の箱の家のコンセプトにも、そのような側面があると思います。難波先生いかがでしょうか?
難波
去年の『新建築住宅特集』12月号に昔の「箱の家」を2件取材してもらったんだけど、その中で感動的な話があったのでそれを紹介します。夫婦と子供6人で「箱の家」に住んでいた家族に取材しました。当然子供室なんてつくれないので、3階建の3階に21畳の子供ゾーンをつくりました。入居したときは一番上の娘が小学5年生でした。10数年ぶりに取材したら、その一番上の娘が結婚して子供3人と一緒に住んでいたんですよ。それで彼女に聞いたら、本当に嫌だったって(笑)。彼氏に電話もできないし納戸を私の部屋にしてくれと両親に懇願したけど、許してもらえなかったと。本当に大変だったと何度も言うから「じゃもう間仕切り入れるしかないね?」って聞いたら、「いや、これで良い。」って言ったんですよ、感動的でしょ。親になると子供はこれでいいと。
門脇
本日お二人にお話をうかがっていて、やはりある種の型の必要性を強く感じました。型の根拠が生産の方法だったり、周辺の環境だったり、地理的固有性だったり、ライフスタイルだったりする。それらをリソースにしながら現代的な型をつくっていく試みはまだ十分とは言えず、そこにハウスメーカーと建築家の共通の役割があるんだろうなと感じました。
大島
工業化住宅というと簡単そうに見えるかと思いますが、実際はなかなか逆に難しいつくり方がたくさんある。それを再認識された方も多かったと思いますが、最後に古谷先生がおっしゃったように、個室をたくさんつくるから難しい問題につながっているのかもしれない。人間の根源的な問題に深く関わる住宅に携わる人間にとって、今日のお話は非常に参考になったのではないかと思います。Aプロジェクトではひきつづき住宅の問題についてのシンポジウムを開催して行きたいと思います。今日は長時間にわたりありがとうございました。
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