イベントレポート
Aプロジェクトシンポジウム
「時間がよびさます建築」イベントレポートー【4】
ディスカッション
清水
私も投げかけさせて頂きましたけども、まずそれぞれお二人のプレゼンテーションに対して大事だと思うところから話していただきたいと思います。平田さんお願いします。
平田
並び替えるだけで何かを浮かび上がらせるかという話の最後の方で、個々の解釈がどのような全体となるかなどの話しがあったと思うんですけど、最初から一個の原理があって、それを用いて全部解き切るっていうのがあんまりリアルに感じないということに対してどうするか。このことって結構今建築やっている人々が共通で考えていることにも通じる問題意識かなと思いました。そのある種の時間の中で考えるという必要があったり、先に考えてたものに対して何かつけていくようなことっていうのが結果として、ある全体を浮かび上がらせるということがある。その一番おもしろい部分を指摘してくれたプレゼンテーションだったかなと思うと同時に、八戸の話と京都市美術館のつくり方が、今そういった問題意識にどのように応えているのかっていう直接的な説明はあんまりなかったので、そこをもう少し突っ込んで話してもらえるといいかなという風に思いました。
清水
西澤さんお願いします。
西澤
特に太田の場合の市民のワークショップを通しての暴力的なようなプロセスについてで、それが最初の自分の設計した種みたいなものがどんどん違う方向に育っていってしまうことを許容するところがまずきっかけとしてはあるけど、そこからはコントロールするとかしないとかとは別に、ある最初に想定したゴールみたいなものを一旦括弧に入れてしまうという作り方は今非常に共感できるところがあります。たぶんですけど、基本的に平田さんが〈からまりしろ〉って言ってることはそこに対して非常にオープンな考え方だと思うんですよね。その都度何に対してからまっていくのかっていうのは、変えようと思ったら変えられるし、それにどの程度の量からまるのかっていうことはパラメータとして開いていて、そのワードの設定の仕方の素晴らしさがあると思っています。今まで書籍も読ませていただいたんですけど、それが八代のように、タイムスパンの話もあって結構今までの作品と、全体としては違う感じが出ているように感じつつ、個々の小さいもの、局所的なものと全体の関係性を変化をさせつつも全体が繋がっていること自体は継続されている気がして、 そのことにはすごく単純に憧れています。というのが僕の感想です。
清水
私は平田さんの作品を見ていて、一貫性があるなという風に感じます。〈からまりしろ〉という言葉もまさにそうですけど、あくまでも人のアクティビティを絡ませるものになっている。先ほど言っていたことになりますが、生態系で言うところの建築というのはあくまでも地盤的なものでしかなくて、それに対して変化する要因として人のアクティビティというものをうまくプログラミング化していることがどの作品にも一貫してるなという風に感じました。
平田
清水さんの話の中で IntegrityとAuthenticityという話がすごくおもしろいなという風に思ったんですけど、文化的景観ということの中で、このIntegrityという同一性とか全体性を補装するもの というのは変化したとしても変わらないものである。このことがすごいおもしろいなと思って、それが何なのかっていうことが言い当てられると、それ自体が建築的だし、逆に文化的遺産というのがどういうものなのかを定義するときには、その全体性を必ずフレーミングしなきゃいけない。それを例えば、西澤さんのやっていたことと重なると思います。つまり、脈絡のない話がいっぱいあって、それがどういう風に並んで、こう並んだらこのように理解できる、というフィルターみたいなものを設定する。それがある種の全体性になるという話に僕はヒントを感じて、今回はそれを掘り下げたいなと思いました。
清水
西澤さんは二つの作品の中で、いろんな問題に対して、一つのカチッとした全体性で応えるのではなく、なんとなくの全体性を作っているのかなという風に感じて、そのあたりの方法論や実際直面したことなど伺えたらなと思います。
西澤
それは建築の設計の中では正直なところふわっとしているんですよ。それでこれでなんとなく調和が取れているな、これでいいなというのは、僕らの判断する主観なのか、趣味性なのか、興味なのか。あるいは、じゃあこれでいいっていうのにするのにはもう少し客観的な議論とか評価を必要とするのかっていうのは、建築の場合にどうしたらいいのかは今試行錯誤ではあります。
でも、今平田さんが言われたこと、あるいはIntegrityっていうことに対して僕の中では、ひとつは展覧会の会場構成の話の中にあります。展覧会って、作品は今回何点あってこういうテーマでやりますので会場作ってくださいって言われて、僕がやるのは、どういう距離感で作品を配置して、どういうシークエンスを作ったら読み流れがスムーズにいくかっていうことだけなんですね。それをやっている時に、個々の作品でキャンセルになりました、増えることになりましたとかいうのは結構あるんですよ。そうするとカッチリと全部の作品の配置が決まりすぎていると後々破綻するというのは分かり切っていているプログラムなんですね。どこにどういうものがあって、どういう流れを作って、こういけば全体としてはスムーズにいくなっていう組み合わせがあってその中でいつもやっています。
もうひとつは最近Archiveって言ったりするんですけど、Archiveっていうのは美術収蔵作品を保存したり記録したりするのが一般的な意味なんですね。Archiveって例えばピカソの作品があったときに、彼の絵が何年頃のこの作品でこういう作品ですっていう風に分類して全部収蔵していきますよね。実際は彼の作品は一箇所に全部集まってるわけではなくて、世界中の美術館に散らばっています。というのも、その作品リストの中で、どこどこにこれがあって、どこどこでこれが盗まれた、ということがありますよね。それでピカソのArchiveを作ろうとすると作品だけじゃなくて彼が使った絵筆、パレット、サイン、手紙みたいなものもピカソコレクションに入ってくるんですよ。そこで新たな分類の中に組み入れられていく。でもそれは全体としてピカソのコレクションなんですよね。常に中のものが入れ替わったり紛失したりしても、この作品が燃えてなくなったり、盗まれてなくなったとしても、「ない」という形であるんですよね。だから全体は変わらない。だからそのピカソの作品っていう全体のあり方があって、その中身が入れ替わったり、新しい時代の 分類の仕方が発明されて分類が入れ替わったりするけど、そのArchiveのコレクションとしてはある、というような、そのものとものの関係がなんとか作れないかなっていうこととして、Archiveっていう言葉を最近使っています。建築の中でも、それが壁とか床とかいうものであったり、家具という場合もある。こういう風に使うという要素としてカウントしていいのかもしれないんですけど、それが美術館なら美術館の中で、どういう要素としてカウントできるかっていうことが、次々入ってきたり出てきたりする。その器というのをどう捉えようかっていうところまでをやらなければいけないなと思ってはいます。でも、じゃあこれは入ってよし、これは今回出てくれっていうようなことをどうやって線引きするかっていうのはいつも手探りっていう実情ではあります。僕の中のIntegrityという考え方に対して応答するイメージはそういうものです。
清水
全く同じですね。Integrity っていうのは抽象的な話なんですけど、さっきの絵を思い出していただいて、勝手に変わっちゃうものがそれぞれにあって、じゃあ何に対してIntegrityがあるのかっていうときに、一応定義されています。一つは適切な範囲があるということ、建築的な枠があることですね。そして、その対象を構成している必要な要素が全て揃っていること。また、その要素同士が量的な関係性を保っていることという風に、この3つで定義されています。今はそのアArchiveの話や西沢さんの話とも並行しているなという風に感じました。まさに文化的景観ですね。
西澤
でもその方法論はまだ、〈からまりしろ〉みたいな感じでピシッと言えるものはまだない状態ではあります。
清水
平田さんのいつも言われていることかもしれませんけど、あの螺旋はどこから来ているんですか?私にはどの建物にも螺旋が見られる様な気がしていて、そこはどのように考えているのですか?
平田
なんかまあそこはクセのようなものかもしれないですよね。いつも立体的にしようとするとどうしてもそういうものが必要になってくるという感じですかね。
清水
僕らの分野だと、太田に螺旋が入っているとさざえ堂が思い出されますよね。 太田市にもさざえ堂がありますよね。会津若松のさざえ堂なんかダブルスパイラルで有名ですけど太田市のは古い感じの、もう少し原初的なような感じなんですけど、そこから発想されているのかなという風に感じていました。
平田
太田市にさざえ堂があるのは後から知ったんですけど、先にさざえ堂って言っとけばよかったなあと、あざといことを思ったりもしましたけども。
僕もそういう全体性を保つある枠組みみたいなものを設定できさえすれば、後はもう別にどうなってもいいっていうぐらいのおおらかさで建築をつくれるとすごく楽しくいいんだろうなという風には感じています。ただそれが太田の場合ですと、箱があってスロープがあって、街が連続したような立体的な建物っていうことで一旦建築的形式を決めて、それを正直いろんな意見があるものに対してはそのまま解体していこうという戦略もあったりしたんですけど、そのとき前提としてあったものは割合リジットな建築の形式なんですよね。それがある程度どこまで崩れていっていいかという設問で、このやり方では一旦できるということは分かった。ただ本当にそれが現代的建築の最終的なゴールかっていうと、どうもそうとは言えないだろうということはやっぱりあって、それが多分西澤さんも共通で悩んでることなんだろうという気はしているんですよ。僕も一方で文化的景観ということに対して、『人類は地表面を発酵させている微生物のようなものである』ということをたまに言ったりしてるんですけども、要するに文化的景観というのも、小さな目線で人間の活動だけ特別に捉えると文化的景観になるんだけど、もし違う枠組みで地表面を観察するとほとんどカビとか微生物のような、地表面を発酵させるはたらきを人間が行っているとも言えなくもない。そういうやり方で建築を見直していきたいというふうに思って建築を始めたところもあって、最近公共建築とか、今回の八代とか歴史性がある場所に取り組んでみて思うことは、こういった建築が人間というものを別のものに読み替えるっていう視線をもう1回ぐるっと一周して、それをもう一回文化とか文明とかそういったようなレベルにもう1回解きほぐしていって、何ができるかっていうことを考えないと立ち行かないなっていうような感じがしています。まあそこが面白いんでしょうけど。そういう時期にもう1回文化的景観という言葉をお聞きできたのはすごい貴重だなという風に思いました。
清水
もう一度お聞きしたいと思うんですけど、生態系というものが建築に応用されるとなるとどうしてもそれはアナロジーであって、生態系そのものにはなりえないという風に思っちゃうんですよ。平田さんはそのあたり自分の作品に対して どのようにお考えですか?
平田
僕はもうちょっと積極的に生きているということを捉えたいと思っているんですね。生態系という言葉に関してあくまでメタファーであるという次元をどうやって超えるかが大事だとは思ってるんですね。
一つの視点としては生きているということは生物だけが生きていると考えるのではなくて、アレグザンダーなんかも別の言葉遣いをしてますけど、 「生きている度合い」として捉える。自然界の法則でエントロピー増大の法則っていうのがあって、それがどんどんエントロピー乱雑さが増えて全部が区別がつかないホワイトアウトするぐらいに最終的になると言われているわけですけども、それは究極的な死を意味するわけですね。宇宙が生まれて宇宙背景放射にムラがあるっていうのが観測されたという話がありまして、なぜそれが重要かっていうと、ビッグバンのときにムラがあったから、どこかで凝縮が起こって星が生まれたり生物が生まれたりして、どんどん創発が連鎖してってことがあったんですね。それは言ってみれば、放っておくとどんどん無秩序になって均質になっていく方向に対しては、どんどん生きている度合いが高まっていて別のはたらきのような気がしています。僕は自然というものを、生きていく方向のはたらきと死んでいく方向のはたらきが両方背中合わせに共存していると思っていて、自然なのか人工なのかっていう区別は偽的で、生きている度合いが高まっていく方向なのか死に近いのかっていうことの方が本質的だと思っているんですね。建築は生物ではないので、文字通り生物であるとは言えないですけど、少なくとも人間という生きている生命体、あるいは人間集団が生きていくために必要な環境を自分たちで作っているわけで、そこまでも含めた生きた活動として捉えると、必ず生きている世界の一部であらざるを得ないと思っています。そのときに建築物がより生きている度合いの建築とそうじゃないものというのは別にあると思っています。必ず建築である限りは生物の度合いのどこかの地点にいる存在であることは確かなんですけど、その雲ようなところの中のより生きている度合いを最大化するような建築っていうのはあり得ると思っていていて、それが自分が目指しているラインなんじゃないかって自分の中で位置づけられると思っています。
あとはアクティビティってさっきをおっしゃってた話もそうなんですけど、実態としての建築とそこでできている人間の活動っていうのはもっとに詳細に見ていくと、端に空間とアクティビティっていう、形式とそこで起こる行為という図式に止まらないものであるとおもっています。それが作っていく段階で、 設計自体が変わって行ったり、 変わった事が堆積していくということがどんどん積み重なっていって、人間が生きていることと建築ができていくことはどこかで一体的なんだと思うんですよね。その一体感をより生きている度合いの高い建築の作り方という文脈に、いろんな形で取り込んでいくことができたら多分いいんじゃないかなというのが僕の考えです。
清水
その設計プロセスは非常に素敵な話だと思う一方で、やっぱり建った後の建築が改変されていくことと、設計プロセスの間の変化とでスピードがガクッと落ちますよね。その後も含めた生きている建築のあり方ということに関してアイディアはお持ちですか?
平田
実際活動が行われるということ対して、どういう風に場を与えてく建築を考えていく場合は、うまくいった度合い、建築空間自体がずっと生きている状態で保たれていると思うんですよ。例えば棚田のような風景も、人の行為が止まってしまったらなくなってしまうし、棚田だけ頑張って保存しようとしてもどこかで崩れてしまうものがあると。それと同じようなことがあると思っています。でも一方で、もし棚田があって農業がなくなったとしても、その風景を利用してまた別の活動ということがまだ起こり得ますよね。その何かのきっかけで生まれた、生きている活動の痕跡としての哀愁が別の活動を育むということもあり得て、何もなかったら産まれないものが生まれることもあって、建築っていうのは常に再解釈に開かれていることが豊かであることも同時にあると思います。 今現在のその使われ方にジャストフィットをしていることが一番いいかどうかは分からなくて、もう少し未来の話まで開かれているというか、そういう側面が同時にあるというのも重要だと思っています。
清水
アナロジーで恐縮ですけども、文化的景観の絵で考えると、植わってる稲があって石垣とかテラスとかを作ってらっしゃるという風にも言えるのかな思いました。
西澤さんの京都市美術館の話の中で可逆性という話がありましたよね。私はあれは随分文化財寄りのことを言ってるなあという風に感じて、こちら側からするときちっとやってらっしゃるというか、随分保守的だなと。その辺り本当はどうお考えなんですか?
西澤
あれはプロポーザル上の戦略ですね、半分は。ただ文化財保存って難しくて、これは残しましょう、これは壊してもいいでしょうっていう判断で実際にないんですよね。見る人によって変わるんですよ。このことは京都に来て景観条例なんかにほんと思うんですよ。これがいいか悪いかってのは何の根拠で決まってるのってよく分かんなくて、結構京都ってそういう街並みだなって思ったりもしています。だから僕らとしては、オリジナルのもの至上主義みたいなものはそもそもないです。ただそれが、平田さんの話にもあったように、これがおもしろく使えるとか、こういうはたらきかけをしているなとか、こういう使い方を誘発するなとかそういうのがあったら、うまい使い倒し方を考えたいなと 思うし、あるいは単純に京都市美術館としてのイメージ、なんとなくみんなが思い浮かべるであろうイメージみたいなものを損なわない程度には残すけども、新しい様相は入れてもいいなという風に僕らはフラットに考えています。
今の話にもちょっと関わる気もするんですけど、平田さんの文章で屋根の話があってそれ僕すごい好きなんですよ。屋根は水が流れる、山から川を辿って水が流れる。それはまあ人間が地球を模倣してるわけではなくて、単純に水の働きを考えたら古今東西そういう形式が建築として生まれてきたと。遠い宇宙人みたいな視点から見たら、山から水が流れることも屋根から水が流れることも一緒だと。ざっくりとそういう話だったと思うんですけど、このことはさっきの生命の話と近いなあと思っていて、有機物としての生命体が活動をすることとは別のことで屋根に水が流れて、雨の日にトタンの屋根にパンパンパンパン音がすると。そうすると室内がうるさいからテレビの音をちょっとあげてみるとか。そういうはたらきかけをがはたらきかけを産むっていうような連鎖ってあるじゃないですか。それって生物が自発的に餌を食べるとか本を読むとかいう活動じゃないところで建物が生きているとか、街が生きているという風に解釈できるんですよね。それははたらきかけの連鎖というか、視点を人間とか動物とかに限定しなくてもそういうことが起こり得ると思っていて、それくらいフラットに無機物か有機物かということは取っ払ってそれがどういうはたらきかけを周りに及ぼすか、及ぼしていないかという考え方に考えると。じゃあそれをコントロールする側の建築としては、それを取捨選択 することがあってもいいじゃないかと、そういうはたらきかけの度合いが大きいかどうか、はたらきかけが大きいものはできるだけ残す、はたらきかけのもうないようなものは、うまくいかす方法があれば残すし、これがもう弱いなと思ったら取るっていう判断もできる、というようにして京都市美術館の場合はどれを残したい、壊してもいいよねっていうのは考えました。必ずしもオリジナルの部分至上主義でこうでなきゃいけないということはないです。例えば、京都市美術館の展示室で木の建具枠が展示室に入るところにあって、今回は全部防火区画をしなければいけないので、あれも木製建具なんですけど全部スチールの防火建具を入れなきゃいけない関係で壁がどんどん腐けたりするんですね。オリジナルの木の三方枠を移設できれば一番いいかもしれないんですけど、できなかったとしても真っ白い壁にするのはやめようという風には思ってるんですね。それは京都市美術館というものの持っていた空気感というものがこういう枠とか、異常に高い巾木とか、ああいうものが展示にどうしても影響するので、あれが邪魔になってきたらちょっと外そうとかそういう展示になるんですね。それはホワイトキューブだとギリギリ開口まで寄せても展示ってできちゃうんですけど、でもそうじゃないんですよね。これがこの美術館の持っている独特のはたらきかけがあるはずなのでこれは残そうととか、そういう判断なのでこれがオリジナルかどうかとか一応取り入れますけど、それはどっちかって言うと文化財保存家とか市とかの協議の中で、うまいことこれはオリジナルだから残しましょうということは言うけど、本心はそういうことではなくて、こっちがやりたいから行政的に作文的に言うところはありますね。
清水
ちょっと文化財寄りになってきたのでお聞きしたいんですけども、西澤さんそうは言っても文化財の守るべきものはきちんと守っていくっていうのを強く意識されている人なんだということはよくわかりました。一方で今回青木さんとJVを組んでいて、青木さんとの役割分担というか、あの建物の設計における古い物の扱いだとか言うことに関してギャップみたいなものはありましたか?
西澤
青木さんとは特になかったですね。
清水
同じ方向を向いていると?
西澤
まあ青木さんもああいう人なんで、コロコロ変わるんですよね。これいいねってなる時と、それよくないねってなる時は何が違うかって言うと、さっきのモナリザの話じゃないですけど、これはこうだから面白いよねとか、こうだから面白くないよねっていうことが、説明とセットだと彼は納得するんですよ。そこに趣味とかっていうのはもちろんあるんですけど、デザインする時には今は完全に対等にやっていて、どうする・こうするという時には、その判断基準はこうするとよく使えるよねとか面白いよねとかいうことだけで、そこにその文化財的なものとか現代建築についてどうとかいうのは別にそんなに複雑な基準があったりするわけじゃないですね。
平田
話が変わるんですけど、清水さんのような方が今京都で先ほどのような研究をやっていて、まあ僕も元々京都で学生をしていて、今まさに京大で教えているわけですけども、京都に戻ったときにが綺麗になったなと思ったし、もう一方では割とコピーっぽいなっていう感じもしていて、この先京都はどのようにしていったらいいのか誰もビジョンがないような気がします。つまりその京都って保守的な一方で、やっぱり魅力は変わっていく力というか、コンテンポラリーというか、いろんな時代のものが現代的に並列されていることの力強さというのが京都にはあると思うんですよね。それが今はクリシェと化したような、パターンとか屋根上の出っ張りとか、それはまあ別に悪いものじゃないかもしれないんですけど、ただどんどん増殖していくだけで町としては死んでいく方向に行くんじゃないかという風に思っておもしろくないですよね。それで、じゃあ何でもやっていいのかっていうわけではなくて、清水さんもおっしゃっていた文化的景観という視点から見たときの全体性というか、京都というものに対してどのように考えていくかを構築できるのかっていうことは、それこそ清水さんのこれからの京都を見据えた今の研究だったりするんですよね。それがいいなと思って、僕も今は全然そういう建築の立場ではないんですけども、京都っていうところで何かをするときはそういうことを考えていきたいなという気持ちになったというのが今日の僕の収穫だなと思っています。
清水
実は京都全体を文化的景観としてとらえてみようということは京都市主導でやってるんです。まあ成果はお楽しみにということで。大きい根としての京都をどのようなビジョンで今後描いていくかというのは大事ですし、同時に一つ一つの京都をどのように捉えていくかということで、例があるかと言うと、みんな閉口してしまうんですよね。
平田
ニューヨークの例なんて非常に面白いなんですけど、ニューヨークとか欧米とかで、日本の考え方で優れた風味があるって言って、それを模倣するのも嫌じゃないですか。やっぱりもう少し融通抜きに、日本とかアジアとかその都度違う思考形態をそこに導入して、まさに文化的景観のバックボーンにあるところから拾ってきた何かの枠組みみたいなものが、そこに生きていることで初めて世界に誇れるような話になるわけで、そこはおもしろい問題設定だなと思います。
清水
まさにおっしゃる通りで、ニューヨークの例はチラッと出しましたけど、とても表層的です。中までエグり込んでる感じがないですよね。文化的景観は仕組みが作り上げるものであって、景観っていうのは結果的に見えてくるものなんですよね。だから仕組みこそ大事で、そこには確固たるシステムがあって、それがまだ見えない状態であるととは思っています。
お二方から、設計について考えているものが、全体ではないかもしれませんが、近いものを感じました。そして今日話を聞いてこれを機に、よく分からない私みたいな人とまたまたどこかでお話できることを期待しております。
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