イベントレポート

<ディスカッション>

橋本
吉村さんありがとうございました。たくさんキーワードが出てきたと思います。ひとつ目は民家についてです。吉村さんは「CCハウス」や「House Maker」等のプロジェクトにおいて、ひとりの建築家が1,000戸の住宅をつくるのではなくて、1,000人の人がひとつの住宅をつくるというのが民家の形式であり、そこに住宅の可能性があるという話でした。一方、ハウスメーカーは民家との距離というのはどうなのかについて、松村さんにお聞きしたいと思います。 建築家住宅、ハウスメーカー、工務店住宅があったとして、民家は工務店住宅に近いところにあるかと思います。そして一方で、ハウスメーカーの住宅の中にも、ある種の民家的な知の集積というものが起こりうるのか。それが先ほどのクリエイティブ・コモンズ的な展開をするのかどうか。そのあたりについてお話をうかがえないでしょうか?
松村
民家というと、大野勝彦さんを思い出します。大野さんが「セキスイハイムM1」を開発したとき『現代民家と住環境体』(SD選書)という本を出しました。本が出たのは1970年代なので、もうプレハブが出てきている時期です。中を見るとやたらに民家の写真が多い。 大野さんは民家を下敷きに、M1の具体的なフレームを考案しています。民家の田の字型プランには空間の型がある。それは架構の仕組みと分かちがたい。木造の軸組構造で、柱間はそれぞれ少しずつ違ったりもしますが、プランには一定の型がある。そのように、多種類の箱を用意しなくても同じサイズの箱の連なりでいいという考え方に至る。柱が4本あって、面が2つあるユニット構法の元になっている原理がある。それに内装を貼り付けていけばいい。つまり民家というのは原理であると言っているわけです。 工業化社会で原理にあたるものを自分はつくっているという説明を、僕は大野さんから受けことを思い出しました。ただ話はそれだけではすまなくて、民家というものは生活様式自体が地域社会という、ある閉じた世界の中で息づいているもので、生活全体があるパターンをもった原理で動いている。暮らしのあり方と住宅の形態、間取りが分かちがたく結びついている。ところが、今そういうことがあるかというと、僕の隣に住んでいる人がどんな暮らし方をしているのかなんて知りませんし、同じではないだろうと思う。特に都市部の場合、それぞれにまったく共通性がないわけですね。いわゆる生活文化における地域色、エリアでの一様性のようなものがなくなってくると、民家的な関係性の原理はまったく期待できないというのがぼくの考えです。 「O型開発物語」という本があるんですが、これが結構面白い。「天守閣のイメージ」という当時の社長の言葉があって、それを元に商品開発チームが考えていきます。天守閣とはお父さんの場所というイメージです。お父さんが望遠鏡で見るところとか、お父さんしかいけないちょっと高いところにある空間とかね。お父さんはサラリーマンで、会社では威張ってないけれど家では一国一城の主だという家族のモデルが、明らかに説得力を持って当時は存在していた。それは地域社会に関係なくモデル化されて建っていますが、実は意味的にはまったく民家そのものだと僕は思います。建った風景がどうかというよりも、その時代の生活文化が、ある一様性を持っていて、それが形に表れたものとしては民家っぽい。しかし今そういうものがあるかというと、どうかなという感想ですね。
橋本
吉村さんは今の松村さんの話を受けていかがでしょう?
吉村
日本の民家って日本人にとっては確かにすごく居心地がよいんだけど、どちらかといえば生産側の論理でつくられている部分が大きいと思っています。日本の民家は、家族像や生活像の統計的定着というよりは、生産側の論理の統計的定着といった側面が大きいと感じるんです。私の言葉で言えば、ビヘイヴィアじゃなくプロトコルでできている。それがプレハブ的なものと親和性が高いと感じる理由なのだと思います。戦後、住宅が短命化したことで、家族像や生活像に寄り添うことが可能になった時期があったにしても、今また住宅は長寿命化の途上にある。一世代では壊さない家を考える必要があるわけです。家族像を超える住宅像を考えたい。民家の居心地がいいのだから、商品化住宅だって民家並みに居心地良くできるはずなんです。でも1000年かけて編み出された民家にひとりで近づくのは限界がある。できるだけ多くの人のアイデアを集めてきて集約していけば、そのなかから未来の民家が選び出されるのではないかと思っています。
橋本
ありがとうございました。建築の社会的寿命という言葉がまさにそれに当たるんだろうと思います。松村先生が数年前、大野勝彦さんが無目的な箱と言ったことについて、当時まだ早すぎたんじゃないかと振り返っておられたことを思い出しました。無目的な箱というのは要するに、使い手側が自由に使える空間ということだと思います。それと今の吉村さんの話はつながるところがあるように思います。
松村
たまたま一週間前に「M1」を使って建てられた林泰義さんと富田玲子さん夫妻の自邸に行きました。時間がなくすぐに建てないといけないというので、展示場へ行ってどれがいちばん早くできるかと聞いたら、「M1」だと言われて決めたそうです。壁をぶち抜けるかと聞いたら、営業の人がわからないという。要するに無目的な箱には壁は付いていなくて、床があるだけで良いのに、ビジネス的にはいろんな壁をくっつけて売っているわけで、壁をぶち抜ける可能性はあるけれど、商品流通上、壁はぶち抜けない。 林さんと富田さんはその後、大野さんに直接会って壁をぶち抜けるかどうか聞いたそうです。そうしたら、壁は当然ぶち抜けると言われ、意を強くしてぶち抜いた。ぶち抜きまくって、ほとんど柱と床だけにして、一部吹き抜けもつくったりしています。「M1」が出始めの頃だったので、まだ製品としてのルールがかっちりできていなかったんですね。その5年後に壁をぶち抜きたいと言っても、仮に大野さんが大丈夫だと言っても、おそらく会社はぶち抜かなかったでしょう。そういう意味では元の無目的な箱に、あんなふうにいろんなものをくっつけて、それを商品として売ったわけですね。 住宅の床を、地震が来ても大丈夫なようにつくることは素人には無理なことですが、一方で、空間をつくる材料として、ネット上で買った物など、いろんな選択肢を住み手側が選んで、自由にくっつけられる可能性を持っているという意味で、住宅はすごく面白いものだと思う。けれども、それを供給する企業側は、どうしても一戸の床と柱と壁をひとつの生産ラインで流しているので、そこにあまり選択の余地がない。本来は、ここでブチッと切って箱だけ売ってくれればもっと住み手が自由になる。そこがこれから重要になってくる。極端な例かもしれないけど、吉村さんがおっしゃっていることとまったく同じです。住み手が何かをやっていく、それ自体が楽しいし、自分らしい暮らしと空間が手に入るということを、どうやってサポートしていくかという話につながる。 典型的な話でいうと、制度化されたサービス付き高齢者住宅などはこの時代の流れに逆行している気がします。ある年齢で、ある身体能力を持った人に18㎡で住めという。高齢者には暮らし方の設計も何も許されていない感じを受けてしまいます。介護サービスがある住宅のような施設にぶち込もうとしている。住宅メーカーだったら高齢者の住宅についてもっと発想を広げて考えて欲しい。いつあそこに入るのだろうと思うとすごく気持ちがしぼんでしまいます。
橋本
共感をいたします。建築家が設計した住宅でも、かつてだったら建築家がしつらえたしつらえ通りにかっこよく暮らすという風潮があったと思うんです。それが、いつの頃からか、クライアントがあとから自由に手を入れられるようにスペースをつくっておくという方向に向かい始めている。今のお話だと、工業化住宅は逆の流れになってきたように理解しましたが、住まい手が後からいじれる余地を大事にする傾向は工業化住宅の中では見られるのでしょうか?
松村
それはなかなか難しいところです。一方で設けられる性能と機能の数が増してきています。高性能で高機能な方向に住宅メーカー全体が向かっているので、さきほどの無目的な箱からどんどん目的のほうへ寄ったパッケージになってきています。付加価値としてついてしまっているので、逆に昔と比べても住み手が自由にできる度合いは低くなっているとも言える。住宅メーカーがどこまで何を取り込んでいくかが、内容的にも僕らが見てもわからなくなっている。どんどん盛り込んでいく方向は、個人的には間違ってると思います。そこに将来はないぞと。人々が求めているものとは違う方向にどんどん進んで行く一方じゃないかと思うんです。
橋本
ありがとうございます。今の話はクローズドなシステムとオープンなシステムの戦いのようなもので、日本の住宅産業だけではなく、おそらくほとんどのメーカーに共通する問題ではないかと思います。 最後におふたりに一言ずつ締めの言葉をいただいきたいと思います。吉村さんからお願いいたします。
吉村
生活の場としての住宅は、本来オープンなシステムだったんだと思います。完成した商品として家を買ったとしても、住み手はリビングに絵を掛けたりトイレの紙巻きにレースのカバーをつけたり、どんどん手を入れていく。たとえどこかに自宅に一切手を加えない住み手がいたとしても、家族構成が変わったり、年齢が変わったりすることで、建物の意味はどんどん変わっていくのです。よくよく考えれば、クローズドな住宅なんてない。今後は、フィジカルな部分だけじゃなく、使い方や解釈の部分も含めよりオープンな場としての住宅をつくりたいですね。
松村
住宅メーカーの世界も建築家の世界も、これだけストックが充実してきた今、いよいよ人の生き方とクロスするべき新しい時代を迎えているのだと思います。繰り返しますが、私たちの課題は最早「箱」ではありません。「場」なのです。思い切った意識の変革が必要だと強く思っています。
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